このような憲法の要請があるために、天皇(およびその他の皇室の方々)にはさまざまな制約が生じる。憲法第3章が「国民」すべてに保障している自由や権利の多くが、ほとんど制約されてしまう。そうした国民には決して許されない制約が憲法違反にならないのは、この第1条の要請に基づくからだ(他に第4条は「国政に関する権能」を否定している)。
その一方で、統治機関である内閣・国会・裁判所、さらに国民も、天皇(およびその他の皇室の方々)が「象徴」(およびそのご近親)であるにふさわしく対処すべきことが求められる。
例えば、政府によるいわゆる「天皇(皇室)の政治利用」が批判されるのも、そのような振る舞いが「象徴」としての天皇の地位を損なうからに他ならず、主にこの条文が根拠になる。
憲法が規定する「象徴」の重み
そのように考えると、天皇が亡くなられた時も、「象徴」という重い地位にふさわしいご葬儀の在り方が、憲法上、求められていることになる。それが具体的には皇室典範に明記されている「大喪の礼」であり、「国の儀式」(国事行為たる儀式)という位置付けとされるのも、この憲法の要請に基づく。
そもそも、憲法が規定する国家機関の中で、直接「主権の存する日本国民の総意に基く」という最も正統性の高い地位にあるのは、「天皇」だけだ。
「内閣総理大臣」も「最高裁判所の長たる裁判官」も、“国民の総意”によってダイレクトに権威付けられた「天皇」から「任命」される(第6条)という形式をとることによって、間接的に正統性が保証される。
「国権の最高機関」である国会も、天皇によって「召集」され、そこで議決された法律も、天皇によって「公布」されることで正統性を確保している等々。
そのように、「国民の総意」に根拠を持つ天皇によって国家統治の正統性を担保するのが、今の憲法の仕組みだ。
こうした憲法上の天皇の位置付けに照らせば、天皇のご葬儀である「大喪の礼」が最も重い「国の儀式」として行われるのは、至って当然だ。