7月に亡くなった安倍晋三元首相の国葬が9月27日に行われることになった。神道学者で皇室研究家の高森明勅さんは「法的根拠が明確でないうえに、国民からの反対の声も大きい元首相の国葬は、明確な法的根拠があり、多くの国民の敬慕の気持ちが溢れた昭和天皇の『大喪の礼』とは同列に扱えないほど違う」という――。
自民党の両院議員総会で故安倍晋三元首相の冥福を祈り、黙とうする議員ら。左上は安倍晋三元首相の肖像画=2022年8月3日、永田町の同党本部
写真=時事通信フォト
自民党の両院議員総会で故安倍晋三元首相の冥福を祈り、黙とうする議員ら。左上は安倍晋三元首相の肖像画=2022年8月3日、永田町の同党本部

早々に決まった安倍元首相の「国葬」

参院選のさなかに起こった安倍晋三元首相銃撃事件は、国民に大きな衝撃を与えた(7月8日)。その衝撃がまだ収まらないタイミングで、岸田文雄首相は早々と安倍元首相の「国葬」(正式名称は「故安倍晋三国葬儀」)を行うことを決めた(7月14日に発表、22日に閣議決定)。国葬は9月27日に日本武道館で執り行われる予定になっている。

そこで憲法上、日本国および日本国民統合の「象徴」とされる天皇のご葬儀である「大喪たいそうの礼」と、政治指導者の「国葬」との違いについて、取り上げてみよう。

なぜ国葬になったのか

戦後では、昭和42年(1967年)10月31日に吉田茂元首相の国葬が行われたのが、唯一の例だ。吉田元首相はすでに歴史上の人物で、その業績は著しいが、とりわけサンフランシスコ講和条約を締結し、敗戦以来続いていた占領を終結させたという大きな出来事が思い浮かぶ。

安倍氏は歴代首相をしのいで、日本の主権回復という偉業を成し遂げた吉田元首相に匹敵する(またはそれ以上の)実績を残したのだろうか。

このたび、安倍氏の葬儀を「国葬」として行うことを決めた理由について、岸田首相は8月10日の記者会見で、次のように述べた(「産経新聞」8月11日付)。

「安倍元首相は憲政史上最長の8年8カ月にわたりリーダーシップと実行力を発揮し、首相として重責を担った。民主主義の根幹たる選挙運動中の非業ひごうの死だった。東日本大震災からの復興、日本経済の再生、日米関係を基軸とした外交の展開などさまざまな業績を残した」

「国内外から高い評価と幅広い弔意が寄せられている。わが国としても故人に対する敬意と弔意を国全体として表す儀式を催し、その場に各国代表をお招きする形式で葬儀を行うことが適切だと判断した」と。

政治的打算が前面に

しかし、吉田元首相の国葬は死去から11日後に行われたのに対し、今回は死後2カ月以上も間が空く。この事実に、いささか奇異な印象を受ける人もいるだろう。なぜこんなに遅れるのか。

東京大学名誉教授で政治学者の御厨みくりやたかし氏が次のように説明している(文春オンライン、8月13日配信)。

「“外国の要人を呼びたい”ということに尽きるでしょう。……安倍さんへの弔電が海外からたくさん来たのを見て『外交に使いたい』と思ったはずです」と。

要するに、外国の要人をより多く招くためには2カ月以上の期間が必要だ、ということらしい。もしそれが事実なら、「外交」の大切さはひとまず理解できても、政治的打算が前面に出過ぎて、いささか故人に対して敬意を欠き、国民をも侮ったやり方ではないだろうか。

目立つ反対の声

安倍政権への評価は、国内で鋭く分岐している。海外から多くの弔意が寄せられても、それを故人がわが国の国益を重んじた結果とは短絡できない。

北朝鮮の拉致問題や核・ミサイルの脅威、中国との尖閣諸島をめぐる対立、ロシアに譲歩した北方領土問題など、外交上の重要な懸案は何一つ解決できなかった。

それに加えて、今回の銃撃事件の元凶である世界平和統一家庭連合(旧・世界基督教統一神霊協会)が、今も多くの人々に深刻な被害を与え続けており、しかも安倍氏が同教団と浅からぬ関係を持っていた事実が次第に明るみに出てくると、国民の間では「国葬」とすることに対して疑問視する声が大きくなっているのが現状だろう。

主な世論調査の結果を紹介すれば、以下の通りだ(表記は「賛成」「反対」で統一した)。

共同通信(7月31日発表)=賛成45.1%、反対53.3%。
日本経済新聞(8月1日発表)=賛成43%、反対47%。
JNN(8月7日発表)=賛成42%、反対45%。
読売新聞・NNN(8月8日発表)=賛成49%、反対46%。
NHK(8月8日発表)=賛成36%、反対50%。
時事通信(8月11日発表)=賛成30.5%、反対47.3%。
産経新聞・FNN(8月22日発表)=賛成40.8%、反対51.1%。
ANN(8月22日発表)=賛成34%、反対51%。

まさに国論二分、むしろ反対の声の方が多い調査結果が目につく。

法的根拠はあるのか

反対の理由の一つには「法的根拠がない」という意見がある。これをどう捉えるべきか。

政府側は、「内閣府設置法」第4条第3項第33号を根拠に挙げている。そこには確かに、内閣府の所掌事務として「国の儀式」に関する「事務」を取り扱うことが規定されている。

しかし、だからと言って、内閣だけの独断でどのような儀式でも行えると速断するのは、政治的にあまりにも乱暴だ。

「令和」を決めた慎重な手順

例えば「平成」からの改元の際に、大いに注目が集まった「令和」という元号について考えてみよう。

その法的根拠は「元号法」だ。

同法には「政令で定める」(第1項)との規定がある。普通なら政令は閣議決定だけで決められる。しかし、元号は長い伝統を持ち、国民にも幅広く受け入れられるべきであることから、閣議決定の前に、皇室への丁寧な説明を行い、有識者による懇談会を開催し、衆参両院議長の意見を聴くなどの慎重な手順を、あえて踏んでいる。

そうした手順を経ていたからこそ、多くの国民に素直に受け入れられたという経緯がある。

評価が分かれがちな政治指導者の国葬についても、本当に「故人に対する敬意と弔意を“国全体”として表す」つもりなら、当然ながらそれにふわさしい丁寧さが求められる。

現に内閣法制局は以前、吉國一郎長官が“国葬の場合には立法、行政、司法三権に及ぶ”との見解を示していた(「日本経済新聞」昭和50年[1975年]6月3日付夕刊、森暢平氏「社会学的皇室ウォッチング42」サンデー毎日 8月1日16時52分配信)。少なくとも、国民の代表機関である国会に対しては、誠実に説明を試みるのが良識的な手順だったはずだ。

吉祥寺サンロードの入り口には、慶祝「令和」の文字が掲げられた(2019年5月)
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皇室典範に明記されている「大喪の礼」

一方、「大喪の礼」はどうか。もちろん、「国の儀式」として行われる。しかし、今回の安倍氏のケースと比べると、当たり前ながら大きな違いがいくつもある。

まず、法的根拠が誤解の余地なく明確だ。皇室典範第25条に次のような条文がある。

「天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」

つまり、天皇が崩御ほうぎょされた時は、必ず「大喪の礼」を行うべきことが明文で規定されているのだ(先頃、施行された「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」によって「上皇」も同様とされた)。したがって、その時々の内閣の恣意しい的な判断や政治的な思惑などが介在する余地は、ない。内閣府設置法を根拠とした“どんぶり勘定”的な曖昧さとはまったく違って、透明な運用が確保される。

また、憲法第7条に天皇の「国事行為」を列挙する中に、第10号として「儀式を行うこと」が規定されている。この「儀式」はさまざまなものを含み得るが(例えば、毎年元日に行われている「新年祝賀の儀」など)、皇室典範に明記されている儀式は、「即位の礼」と「大喪の礼」だけだ。それだけ、「大喪の礼」は“国事行為たる儀式”の中でも重い位置付けを与えられていることになる。

「大喪の礼」はなぜ「国の儀式」なのか

さらに、天皇のご葬儀である「大喪の礼」がなぜ「国の儀式」として重大視されるかについて掘り下げると、結局、憲法第1条に行き着く。

よく知られているように、そこには次のように規定している。

「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は主権の存する日本国民の総意にもとづく」

憲法の条文は改めて言うまでもなく、「事実の記述」ではなく「規範の提示」だ。「……である」ではなく、「……であれ」「……であるべし」ということだ。

つまり憲法は、「天皇」が「日本国」および「日本国民統合」の「象徴」であるべきことを、規範として“要請”していることになる。

誰に要請しているのか。まずは天皇(およびその他の皇室の方々)だろう。天皇(およびその他の皇室の方々)は、「日本国」および「日本国民統合」の「象徴」(およびそのご近親)たるにふさわしく振る舞っていただかなければならない。

このような憲法の要請があるために、天皇(およびその他の皇室の方々)にはさまざまな制約が生じる。憲法第3章が「国民」すべてに保障している自由や権利の多くが、ほとんど制約されてしまう。そうした国民には決して許されない制約が憲法違反にならないのは、この第1条の要請に基づくからだ(他に第4条は「国政に関する権能」を否定している)。

その一方で、統治機関である内閣・国会・裁判所、さらに国民も、天皇(およびその他の皇室の方々)が「象徴」(およびそのご近親)であるにふさわしく対処すべきことが求められる。

例えば、政府によるいわゆる「天皇(皇室)の政治利用」が批判されるのも、そのような振る舞いが「象徴」としての天皇の地位を損なうからに他ならず、主にこの条文が根拠になる。

憲法が規定する「象徴」の重み

そのように考えると、天皇が亡くなられた時も、「象徴」という重い地位にふさわしいご葬儀の在り方が、憲法上、求められていることになる。それが具体的には皇室典範に明記されている「大喪の礼」であり、「国の儀式」(国事行為たる儀式)という位置付けとされるのも、この憲法の要請に基づく。

そもそも、憲法が規定する国家機関の中で、直接「主権の存する日本国民の総意に基く」という最も正統性の高い地位にあるのは、「天皇」だけだ。

「内閣総理大臣」も「最高裁判所の長たる裁判官」も、“国民の総意”によってダイレクトに権威付けられた「天皇」から「任命」される(第6条)という形式をとることによって、間接的に正統性が保証される。

「国権の最高機関」である国会も、天皇によって「召集」され、そこで議決された法律も、天皇によって「公布」されることで正統性を確保している等々。

そのように、「国民の総意」に根拠を持つ天皇によって国家統治の正統性を担保するのが、今の憲法の仕組みだ。

こうした憲法上の天皇の位置付けに照らせば、天皇のご葬儀である「大喪の礼」が最も重い「国の儀式」として行われるのは、至って当然だ。

多くの国民が見送った

しかも、憲法論・法律論だけでなく、実際に昭和天皇が崩御された際の国民の反応には、まさに「国民統合」の「象徴」たる天皇への素直な敬慕の気持ちが溢れていた。

その一端だけを紹介すれば以下の通りだ(『昭和天皇実録』第18巻による)。

○昭和天皇がご闘病中、昭和63年(1988年)9月22日から翌64年(1989年)1月6日(崩御前日)まで、宮内庁は国民からのお見舞い記帳を受け付けており、その数は約198万人におよんだ。

○崩御に伴って、1月7日から同16日までに、弔問のため記帳に訪れた国民の総数は約233万人にたっした(1月8日からは平成元年)。

○1月22日から24日まで皇居・宮殿東庭において、長和殿の東庭側の廊下に昭和天皇のお写真が掲げられ、同写真を通して昭和天皇のご遺骸を納めた殯宮ひんきゅうへの拝礼が行われたが、この殯宮一般拝礼に加わった国民は約33万9千百人にのぼった。

○2月24日の「大喪の礼」当日、一般の霊柩車に当たる轜車じゅしゃ(この時に使われたのはニッサン・プリンスロイヤル)が皇居から武蔵陵むさしりょう墓地ぼちに移動される間、沿道には約36万6千人がお見送りした。

少し個人的な思い出を語れば、私も大喪の礼当日、青山通り近くの沿道で多くの人たちに交じって、轜車をお見送りさせていただいた。

この日は小雨が降っていたが、お車が近づくにつれて、沿道の人々は自発的に次々と傘を閉じて、雨に濡れながらこうべを垂れ、深い悲しみの中、粛然としてお見送り申し上げた。その時の記憶が今も鮮やかだ。

まさに「国民統合」の象徴であられた方をお送りするのにふさわしい光景だったと思われる。

「国葬」に求められる慎重さ

その皇室においてさえ、ご葬儀が「国の儀式」として行われるのは「天皇」と「上皇」のみだ(ただし、昭和天皇の母宮に当たられる貞明皇后のご葬儀は例外的に「事実上の国葬」として、昭和26年[1951年]6月22日に行われた)。

評価の対立が避けにくい政治指導者の場合は、「故人に対する敬意と弔意を国全体として表す」気持ちが本当にあるならば、よほど慎重な考慮と丁寧な手続きによって、幅広い国民の納得を得ることが、何より欠かせないはずだ。

このような時こそ、岸田首相がかねて標榜してきた「聞く力」を、存分に発揮すべき場面だったのではないだろうか。