トランプやジョンソンとは全く違う姿勢
クライストチャーチのテロのあと、アーダーンが直感的にとった行動は、悲しみにくれる国家のリーダーとして模範的なものだった。海外からも、国民の心を思いやることのできるリーダーと評価されたし、実際にそのとおりだった。しかしニュージーランド国民はだれも驚かなかった。アーダーンはそれよりずっと前から、自分が属しているわけではないコミュニティを理解し、心を寄せることのできるリーダーだったからだ。
銃規制法の改正では、指揮をとるアーダーンをまわりのすべての人々が支持した。議論が起こることさえなかった。多少の雑音があったとすれば、それは規制をもっと厳しくすべきだという意見だったし、6カ月後の再改正ではその意見が採用された。アーダーンは国民の要望に素早く応え、国民はアーダーンに感謝した。
いろいろな意味で、アーダーンは完璧な政治家だ。自分の個人的意見を脇に置いて、ほかの人たちの希望をかなえるために働くことのできる人間こそ、リーダーに適している。トランプやジョンソンのように、自分の興味や関心ばかりを優先させる政治家とはまったく違う。
しかし、国民の希望や意見がふたつに分かれているとき、政治家はどうするべきなのだろうか。そうした国民のために働くとは、どういうことなのか。ニュージーランド国民(と、世界各国の何百万人もの人々)は、アーダーンが正しい行動をとると信じている。ほかの国のリーダーたちと違って、アーダーンは、どうするのが国民のためになるか、ということだけを考えて行動する。
他人を支援しているうちに世界が注目
だからこそ、悲劇を悼む国民をひとつに結束させてからほんの数週間後に、アーダーンが個人的には不本意な決断を下したとき、ニュージーランド国民は驚いたのだろう。自身の圧倒的な人気を利用してキャピタルゲイン課税の導入を強行する選択肢もあったはずなのに、アーダーンはそれをしなかった。作業部会からも法案可決のお墨付きをもらい、自分自身もずっとそれを実現させたいといっていたにもかかわらず、見送ることを発表した。有権者は疑問を感じた。結局は国民ではなく自分が大切なのか?
アーダーンの本心を推しはかるのは難しい。個人的に腹を割って話しているときでも、論点をいつのまにかずらすのが得意なのだ。国でもっとも有名な人物と話をしているはずなのに、なぜか、そうではないような気分になってしまう。
本人がなにを求めているのかはっきり言葉にしてもらおうとしても、思うような答えは得られない。自分が首相でいることは自分自身にとってはどうでもいいことで、ニュージーランドにとって大切なことだから――結局はそういわれてしまう。
そう考えると、現実がますます皮肉なものにみえてくる。ほかの人たちの希望や主張を支援することに長い年月を費やしてきたアーダーンが、世界の注目の的になったのだから。
訳=西田佳子
サモア、中国、ツバル系。スティーブン・アダムスのベストセラー自叙伝『My Life, My Fight』(Penguin Random House NZ)の共著者であり、2020年まで〈The Spinoff〉のシニアライターを務める。2018年ヤング・ビジネス・ジャーナリスト・オブ・ザ・イヤー、2019年ユーモア・オピニオン・ライター・オブ・ザ・イヤーに選ばれる。北島のボリルアに両親と暮らす。