ゴールは遠くに設定するべし

息子が、掛け算九九を習ったときのこと。

2の段が言えるようになって、ほっとした息子に「じゃぁ、次は3の段ね」とほがらかに言ったら、がっくり落ち込んでしまった。「え、ここがゴールじゃないの?」とすっかりうなだれている。

これこれ、これが男性脳なのだ。ゴールだと思っていた場所がゴールじゃなかったとき、モチベーションがだだ下がりする。

黒川伊保子『息子のトリセツ』(扶桑社新書)
黒川伊保子『息子のトリセツ』(扶桑社新書)

近いゴールだと、乗り越える度にモチベーションが落ちることになる。だから、ゴールは遠くないといけないのだ。女の子なら、バラをつんだ後、あらチューリップもあるのね、という感じで、「今」を重ねて、先へ進めるのに。

2の段ができてちやほやされたら、「え、3の段もあるの? よっしゃ~」という感じだ。たとえ、9の段の後に実は10の段もあるのと言われたって、そうショックじゃない。

女性が、先の見えない事態に強いと言われるのは、このためだ。阪神淡路大震災のときも、東日本大震災のときも、「その日のうちに精力的に動き出したのは女性たちだった」と言われた。町が壊滅しても、「とにかく、今日の夕飯」から立ち上がれるのが、女性脳の素晴らしいところだ。

男は大局を失うと闇に落ちる

男性脳は、大局を失うと、闇に落ちる。生きる気力さえ失うことがある。そんなとき、お湯を沸かそうとする女が傍にいて、「薪集めてきて」とお尻を叩いてくれるのがうんと大事なのだ。

男たちの「大局を見失ったショック」に無頓着ではいられない。特に、男の母としては。

というわけで、息子の「2の段で終わらなかったショック」を見逃せなかった。「3の段どころか、9の段まであるわよ」と言ったら、絶望の淵に沈んだような顔をしている。その顔を見ながら、この際、算数(数学)に関する息子のゴールを、うんと遠くにしておこう、と思いついた。

「なんて顔してるの。先は長いわよ。掛け算が終われば、次は割り算を習うの。その先に、分数や負の数がきて、因数分解、ベクトル、微分積分。あなたが理系の大学院まで行ったら、つごう17年間、あなたは算数(そのうち数学)と付き合うことになる。そこまでいかないと、宇宙を知ることはできない」

2の段でがっくりきている息子にしてみたら、「分数」から「微分積分」までは、なんのことやら、ちんぷんかんぷんだったと思うが、「九九なんて、はるか遠い道のりの、ほんの小さな一歩にしかすぎない」ということは伝わったらしい。

彼の顔から絶望が消えて、希望に変わった。そののち、数学に関しては、「まだやるの」「なんでやるの」ということばを聞いたことはない。黙々と時を重ねて、物理学の大学院を出て、自分のことばで宇宙を語れるまでになった。

黒川 伊保子(くろかわ・いほこ)
脳科学・AI研究者

1959年、長野県生まれ。人工知能研究者、脳科学コメンテイター、感性アナリスト、随筆家。奈良女子大学理学部物理学科卒業。コンピュータメーカーでAI(人工知能)開発に携わり、脳とことばの研究を始める。1991年に全国の原子力発電所で稼働した、“世界初”と言われた日本語対話型コンピュータを開発。また、AI分析の手法を用いて、世界初の語感分析法である「サブリミナル・インプレッション導出法」を開発し、マーケティングの世界に新境地を開拓した感性分析の第一人者。近著に『共感障害』(新潮社)、『人間のトリセツ~人工知能への手紙』(ちくま新書)、『妻のトリセツ』『夫のトリセツ』(講談社)など多数。