「女らしさ」「男らしさ」は自然に生まれるのか
片田孫さんの指摘で重要なのは、周囲の大人たちが、そうした男子たちの行動に対してとる態度についてです。子どもの個性を尊重し、主体性を支援するという「児童中心主義」は、教師からの「女らしさ」「男らしさ」の押しつけには抑制的であろうという姿勢をうながすので、基本的には望ましいものの、そこに落とし穴があるというのです。
どんな落とし穴かというと、「子ども自身が早期から男女に関する知を学び、自発的に性別の仲間関係をつくり、ジェンダー化された遊びを行う場合に、保育者がこれを無批判に受容し、促進する傾向が考えられる。子ども自身がこだわりをもち、望んでいるようにみえるからだ」(同書30ページ)。つまり、子どもが自分の希望として大人に伝える内容が、すでに社会の中にある固定観念に影響されたものであるにもかかわらず、「児童の主体性」を尊重する教育の中ではそれも「子どもの主体的意思」と捉えられ、受容されてしまう傾向があるということですね。
たとえば男子集団が女子の遊びを邪魔するといった侵害行為は、男子集団による、女子への尊重と敬意を欠いた行動であるにもかかわらず、「生徒一人ひとり個人を見よう」という児童中心主義の保育の中では、個々の男子の「腕白さ」を「個人のもの」「その子自身の成長の問題」と捉えがちで、子どもたちの関係性の中にすでにあるジェンダー問題には関心が向かいません。
子どもたちの性差別的ふるまいには介入を
片田孫さんは、「ジェンダーの問題を、子どもの人権と公共性の観点から真剣に取り組もうとするならば、教育者や保育者は、子どもたちを『個人』としてだけ見るわけにいかない。というのも、子どもの現実は、大人が望もうが望むまいが、多かれ少なかれジェンダー化されているからであり、これがしばしば男女間に権力関係を生み出すからである。したがって、教育的な介入は避けられないだろう」(271ページ)と書いて、性差別的な価値観を是正していくためには、周囲の大人が積極的に介入する必要性を指摘しています。
これは、一見すると教師による「教え込み」を肯定し、子どもの自主性尊重から後退してしまうようにも見えるかもしれません。でも、片田孫さんはそうではなく、子どもの自主性を尊重することと、人権や多様性を否定する価値観に与しないことを、どのように両立すればいいかという問いかけをしているのです。