また国内の労働だけでなく、戦地で働く女性もかなりいました。彼女たちの多くは軍の“婦人補助部隊”などに所属し、看護婦(当時)・調理師・救急車の運転手などとして働きました。イギリスなどではこの婦人補助部隊に参加した女性だけでも8万人以上いたといわれています。つまり内外で、銃後の守りをしていたわけですね。
さらには、戦地で戦う男たちをサポートするだけでなく、実際に兵士として戦った女性たちもいます。ロシアには“死の大隊”という女性だけの部隊がありました。この頃ロシア軍は、1917年の二月革命で帝政が崩壊し、兵士たちの士気は下がり、軍内には厭戦気分が満ちていました。そんな中で編成されたのが死の大隊です。彼女たちは男たちから「もっと女性らしい奉仕の仕方があるだろうに……」とあざ笑われる中、厳しい規律を守り、見事、最前線で勇敢に戦ったそうです。
いろいろな形の銃後の守りがありましたが、この時期は女性の社会進出が大きく進んだことを受け、欧州各地で相次いで女性参政権が認められます。
日本も第2次世界大戦当時は、男に代わる労働力として女性は重視されていましたが、その自由度はかなり低いものでした。
1940年に大日本産業報国会が創設され、すべての労働者は、その方針に従うことになります。すべての労働組合は解散させられ、労使一体となって産業で国に報いることだけが求められるようになるわけですから、労働も“自由な職業選択”からは程遠いものになります。翌41年には16歳以上25歳未満の女性を軍需産業に勤労動員(=軍の管理下に集中)し、それが43年には14歳以上に引き下げられます。さらに44年には女子挺身隊が組織され、ここから12歳以上40歳未満の未婚の女性は、働くことが義務付けられたのです。
切羽詰まった日本の銃後の守り
その一方で、既婚女性は“多くの子を産む母”としての役割を担わされ、戦局が行き詰まってくると、なんと若い女性にも“早婚・多産”が奨励されはじめます。ここまでくると、もうメチャクチャです。女性たちを働かせたいのか、働かせたくないのかわかりません。軍需産業に従事しているだけでも攻撃の対象になって危険なのに、それよりも早く結婚して子どもを増やせって……、いくら追い詰められているとはいえ、なんとも日本の銃後の守りは余裕がないですね。
しかも、このような大混乱の中、必死で日本経済を支えてきた彼女たちが、戦後に男たちが復員してくると、労働の場を明け渡すために“家庭への復帰”を呼びかけられます。
戦時下の経済を支えていたのは、世界でも日本でも、間違いなく女性の労働力です。しかし日本では、その最大の功労者である女性に対してこの仕打ち……、なんともひどい話です。
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「現代社会」「政治・経済」「倫理」を指導。3科目のすべての授業が「代ゼミサテライン(衛星放送授業)」として全国に配信。日常生活にまで落とし込んだ解説のおもしろさで人気。『経済学の名著50冊が1冊でざっと学べる』(KADOKAWA)など著書多数。