夫を含め、誰もがまともに相手にしていない

つまり、誰も安倍昭恵という女性を――日本の現ファーストレディーという唯一無二の重要な立場にいる人物であるにもかかわらず――真剣に、まともに取り上げる人がいないのである。

重大な社会的責任と人生の行く末を共有しているはずの夫でさえも、側近でさえも、取り巻く友人さえも、誰も本気で怒らず苦言を呈さず安倍昭恵さんの交友や言動の天衣無縫ぶりを泳がせるということは、誰も彼女の存在や影響力を重要視しておらず「存在を軽視されている」ということなのではないのだろうかと、私は彼女に対してしばしば寂しさを感じるのだ。

マスコミで昭恵さんが評されるときに頻出する天衣無縫という言葉は、「社会性の欠如や無知」をぶ厚いふかふかの真綿にくるんで、最大限に丁寧に表現した言葉である。

“お嬢さん育ち”は言い訳になるだろうか

「だって、大企業の社長令嬢としてお育ちあそばしたんでしょ。お嬢さまだもの、仕方ないよね」。彼女の生まれ育ちの良さが、世間知の欠如や社会性の低さの理由と決め込まれている。

「お嬢さん育ちは世間知らずだから、言動が常識離れしているのも仕方ない」? それは一聴して寛容なようでいて、たまたま彼女と同じように恵まれた環境に育ちながら、だが遥かに社会性と能力を発揮している、人間的に成熟しシリアスに社会貢献をしている多くの女性職業人たちに対して、実に失礼な偏見だと思うのだ。

お嬢さん育ちでも、十分以上に社会的責任を取って生きる有能なビジネスウーマンは世界中に数多いる。例えば企業経営者が重大な経営判断ミスを犯したとして、それは「お嬢さん育ちだから」という鷹揚な説明で「あーそれなら仕方ないネェ」と株主に受け入れられるだろうか。

安倍総理に対しても、「お坊ちゃん育ちだから仕方ない」という擁護が成立するだろうか。冗談ではない、もしお坊ちゃん育ちが言い訳になるような政治家がいるとすれば、その人は政治家などになるべきではない。