子の世代で地位がリセットされる
光泰は山崎の合戦の論功行賞で丹波周山1万7000石を賜り、賤ヶ岳の合戦後に近江高島城主になり、尾張犬山2万石、美濃大垣4万石に転じた。しかし、勝手に家臣に知行地を与えたとして自分の領地を取り上げられ、秀長預かりになって大和郡山で蟄居。その後、赦されて近江佐和山2万石に転封。天正18(1590)年の小田原征伐の後は、甲斐府中24万石を与えられた。そして、文禄の役でも朝鮮に出兵したが、帰国を目前にして文禄2(1593)年に56歳で病死した。
それほどの功労者でも、遺児の加藤貞泰13歳は4万石に減封されてしまう。
現代に当てはめてみよう。加藤光泰は斎藤カンパニーに就職したが、同社が織田カンパニーに吸収合併され、同社の営業第三部に配属。羽柴部長の部下になった。その後、織田カンパニーは子会社・羽柴カンパニーを設立。加藤は同社に転籍となり、出世して山梨支店長に就任したが、病死してしまう。子の貞泰クンはまだ13歳。当然、山梨支店長の世襲なんてできないよネ。給料も親の金額をそのまま貰えるわけがない。
息子たちは戦功を挙げるしかない
貞泰クンは13歳。現代なら中学1年生くらいだ。かれは中学校の文集にこう書くだろう。
「ボクの夢は、お父さんが残してくれた24万石に家禄を復活させることです。そのためには戦って、戦って、戦って、戦って、戦って参ります」
そう、貞泰クンが家禄を24万石に戻すのは、合戦で武功を挙げるしかない。天下一統で国内から合戦がなくなり、平和が訪れるなんて悪夢でしかない。そうなったら、たとえば、海を越えて朝鮮に出兵し、無理にでも合戦を創り出すしかないのだ。
そもそも公家の昇進システムは、子どもの時に比較的低い官位からスタートして、最終的には大臣クラスに到達するようになっている。藤原道長の場合、15歳で従五位下、21歳で従五位上、正五位下、従四位下、22歳で従四位上、従三位、23歳で権中納言、26歳で権大納言、27歳で従二位、30歳で右大臣、31歳で正二位・左大臣、51歳で摂政、52歳で従一位・太政大臣になっている(数え年)。
関白・豊臣秀吉は、数十万石の大名が死去した場合、幼い遺児には数万石にリセットしてから戦功を重ねさせ、数十万石に戻してやろうと考えたのだろう。大名の遺児でなければ、そもそも数万石も与えられない。大きな枠組みでは、世襲をまったく認めていなかったわけではないのだ。