秀吉は家臣の子の禄高を減らした
大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)で、秀吉(池松壮亮)と共に戦ってきた蜂須賀小六正勝(高橋努)が四国征伐の恩賞・阿波(徳島県)一国を子の家政(満27歳)に譲り、満59歳で引退。そのままナレ死した。羽柴家臣団(というか豊臣政権)では極めて円滑に家督相続された(稀有な)事例である。というのも、秀吉は家督相続に際して大幅な減封を行うことが多いからだ。
「豊臣兄弟!」で池田鉄洋が演じていた丹羽長秀の例は有名である。丹羽長秀は織田家宿老の中でも本能寺の変後に秀吉に寄り添い、最終的には越前・若狭・加賀を与えられ、123万石ともいわれる"大大名"になったが、天正13(1585)年に50歳で死去すると、子の丹羽長重14歳は何だかんだと難癖を付けられ15万石に減封された。収入の88%が消えるという大幅なランクダウンだ。
しかし、これは長重が凡庸だったからではない。似た事例が少なくないのだ。蒲生氏郷が文禄4(1595)年に39歳で死去。子の蒲生秀行は12歳で家督を継ぎ、その3年後に91万石から18万石に減封された。
世襲で家禄は最大88%ダウン!
丹羽・蒲生は信長時代に秀吉の同僚だった。では、早い時期から秀吉に仕えた家臣はどうかというと、かれらも例外ではない。
加藤光泰は秀吉と同い年で美濃出身、斎藤家没落の後、秀吉に仕えた(=織田家に仕官し、秀吉の与力になった)という。秀吉が浅井攻めで横山城に在番している際、敵の急襲を受けたことがあった。光泰は先頭に立って反撃したが、絶体絶命のピンチに陥り、竹中半兵衛の救援が来て九死に一生を得た。敵を撃退したものの、光泰は歩行が不自由になるほどの満身創痍となった。
子の世代で地位がリセットされる
光泰は山崎の合戦の論功行賞で丹波周山1万7000石を賜り、賤ヶ岳の合戦後に近江高島城主になり、尾張犬山2万石、美濃大垣4万石に転じた。しかし、勝手に家臣に知行地を与えたとして自分の領地を取り上げられ、秀長預かりになって大和郡山で蟄居。その後、赦されて近江佐和山2万石に転封。天正18(1590)年の小田原征伐の後は、甲斐府中24万石を与えられた。そして、文禄の役でも朝鮮に出兵したが、帰国を目前にして文禄2(1593)年に56歳で病死した。
それほどの功労者でも、遺児の加藤貞泰13歳は4万石に減封されてしまう。
現代に当てはめてみよう。加藤光泰は斎藤カンパニーに就職したが、同社が織田カンパニーに吸収合併され、同社の営業第三部に配属。羽柴部長の部下になった。その後、織田カンパニーは子会社・羽柴カンパニーを設立。加藤は同社に転籍となり、出世して山梨支店長に就任したが、病死してしまう。子の貞泰クンはまだ13歳。当然、山梨支店長の世襲なんてできないよネ。給料も親の金額をそのまま貰えるわけがない。
息子たちは戦功を挙げるしかない
貞泰クンは13歳。現代なら中学1年生くらいだ。かれは中学校の文集にこう書くだろう。
「ボクの夢は、お父さんが残してくれた24万石に家禄を復活させることです。そのためには戦って、戦って、戦って、戦って、戦って参ります」
そう、貞泰クンが家禄を24万石に戻すのは、合戦で武功を挙げるしかない。天下一統で国内から合戦がなくなり、平和が訪れるなんて悪夢でしかない。そうなったら、たとえば、海を越えて朝鮮に出兵し、無理にでも合戦を創り出すしかないのだ。
そもそも公家の昇進システムは、子どもの時に比較的低い官位からスタートして、最終的には大臣クラスに到達するようになっている。藤原道長の場合、15歳で従五位下、21歳で従五位上、正五位下、従四位下、22歳で従四位上、従三位、23歳で権中納言、26歳で権大納言、27歳で従二位、30歳で右大臣、31歳で正二位・左大臣、51歳で摂政、52歳で従一位・太政大臣になっている(数え年)。
関白・豊臣秀吉は、数十万石の大名が死去した場合、幼い遺児には数万石にリセットしてから戦功を重ねさせ、数十万石に戻してやろうと考えたのだろう。大名の遺児でなければ、そもそも数万石も与えられない。大きな枠組みでは、世襲をまったく認めていなかったわけではないのだ。
もし秀長が長生きしていたら…
ただし、その遺児が家禄を回復するには、秀吉がかれの武功を評価してやらねばならない。かれが青年期に達するまで、秀吉は生きていなければならなかったのである。
カリスマ経営者・秀吉の裁量に頼った人事システムが、秀吉の死後も運営できたかは疑わしい。よく「秀長が長生きしていれば、豊臣家は潰れなかった」という話を聞くが、秀長が秀吉の代わりに家臣の家禄を大幅減封・加増して信頼を得られるとは思えないからだ。
ただでさえ、人事評価というものは難しい。必ず不満が出る。
秀吉晩年の豊臣政権で文治派と武断派の対立が起きたのは、秀吉がすべての人事を把握することが難しくなり、石田三成などの文治派の側近に人事評価の一部を介入させたことにあるのではないか。秀吉がいなくなったら、たとえ秀長が政権を引き継いでもウマくいかなかったんじゃないのかというのが正直な感想である。
太平の世を築いた家康は…
家臣が死去して遺児が幼年だった場合、秀吉は遺児の実力を客観的に見極め、相応の家禄に減封した。では、家康はどうだったのか。家康は減封しない。
そもそも家康自身がその経験者である。父が死亡した時、家康は満6歳に過ぎなかった。その自分を家臣たちが必死に支えて、なんとか戦国大名として名を上げたのだ。
だから、家康は幼い遺児には同情的だった。
永禄10(1567)年に東三河一の国衆・戸田忠重が死去した際、遺児・虎千代はわずか5歳。家康は元服に際して偏諱を与え、松平姓を与えて松平康長と名乗らせ、異父妹を嫁がせた。また、天正11(1583)年に信濃の国衆・依田信蕃が討ち死に。遺児・竹福丸は13歳。家康は元服に際して偏諱を与え、松平姓を与えて松平康国と名乗らせた。二人とものちに大名に列した。
家臣の遺児たちを大切にした
また、家康は義理人情も大切にした。三方原の合戦で家康の身代わりになって討ち死にした夏目広次(一般には吉信。「どうする家康」では甲本雅裕が演じた)。かれの遺児・夏目吉忠は関ヶ原の合戦の2年後(慶長7、1602年)、父の偉功により伊豆韮山1万石を与えられることとなった。しかし、同年11月に急死して実現しなかった。さらに、その遺児も翌年死去してしまった。秀吉に仕えた竹中半兵衛があれだけ活躍したのに、子の竹中重門は5000石しか与えられなかったのとは大違いだろう。
ただ、家康はシブチンで、そもそも家臣の家禄をなかなか増やさなかった。昭和の日本的経営、年功序列賃金に似ている。給料は大幅に下がることは滅多にないが、昇給も遅いのである。これに対して、秀吉は働いた分だけ昇給も減給も大胆に行う、年俸制に近いものがある。
世襲OKで“お家”はひとまず安泰?
家康が年功序列賃金(的な人事制度)を実施したおかげで、朝鮮に出兵する必要もなかった。加藤貞泰クンがのちに6万石に加増されてから、加藤家は減俸されることなく明治維新を迎えた。
家禄が増えたり減ったりしない。家臣は世襲ということになれば、中途採用はほぼほぼ実施されない。
藩(会社)が中途採用しないということは、武士(サラリーマン)目線でいうと、転職が難しいということになる。転職が難しいと退職もしづらい。何があっても歯を食いしばって会社にしがみつかねばならない。そうすると、会社の先輩たちはムリな命令を繰り返し、ブラックな職場が醸成される(その代わり、会社は何よりも雇用継続を重要視し、事業の売却よりも配置転換を心掛けた)。
現代日本でそうした江戸時代の封建制度以来の風潮が薄められつつあるのは、欧米流の考え方が浸透してきたのもあるが、人材の流動化が進んできたからだろう。これまで日本で難しかった解雇が一般的になる日も、そう遠くないのかもしれない。