村中で知らぬものはない「佐伯との仲」
夜が明けた。私は晴れ渡った田舎道を、急いで自分の家まで帰って行った。
「ありゃ、宇野先生。お早いことでございますのう」。村人の一人が、愛想よく、そう声を掛けた。
私がどこからこんなに急いで帰って来たのか、その人は知っていた。私と男だけが、そのことに気が付いていないだけであった。
私と佐伯とのことは、村中で知らぬものはないようになった。不思議なことであるが、その頃になっても、二人は、これからどうするのか、話し合ったことはなかった。
「結婚しよう」などとは、一度も話し合ったことはなかった。佐伯は口数が少ないために、そのことを切り出さないのであった。
私もまた、佐伯を好きであればあるほど、それを言わないのであった。
しかし、男をこんなに愛していて、それでも結婚は望まない。そう言う娘が、どこの世界にいるだろうか。
佐伯はそう言う私を見て、思慮深く、結婚しようとは言わなかったのか。ひょっとしたら、佐伯は佐伯で、何か考えがあったのに、私だけが、それに気付かなかったのか。
それどころか、男が結婚しようと言わなかったことで、却って、安堵の胸をなで下ろしていたのか。
諭旨免職の「罰」をうけたときの心情
或る日のことであった。私は学校へ出るとすぐ、校長室へ呼ばれた。
「まことにお気の毒なことじゃが、ああたは、今学期一ぱいで、この学校をやめて貰わんけりゃならんことになりましてのう。郡役所からの命令で、どうにもならんのですわい」と言うではないか。
六、七十年もの昔のことである。小学校の教員同士の恋愛は法度であった。そして、そう言うときにも、男の方は見逃され、女の方だけが罰則をうけた。私は諭旨免職になったのであった。
私の知ったのは、罰則をうけたのは私ひとりで、佐伯には、何の咎めもない、と言うことであった。
ああ、あの人には何事もなかった。もし、あの、思慮深い人が罰を受けるようなことがあったら、どうなるか。想像も出来なかった。
ひょっとしたら人々は、私ひとりが男を誘い込んだのだと見たのか。そうであっても好い。いや、そうであった方が好い、と私は思ったのであった。
この処置によって、男が少しも傷つかなかったのを、私はどんなに喜んだか知れなかった。
![宇野千代『生きて行く私 [新装版]』(上/毎日新聞出版)](/mwimgs/c/0/200/img_c0cca798e66ae07be0e8cd1a7e8ee7ee174659.jpg)