村中で知らぬものはない「佐伯との仲」

夜が明けた。私は晴れ渡った田舎道を、急いで自分の家まで帰って行った。

「ありゃ、宇野先生。お早いことでございますのう」。村人の一人が、愛想よく、そう声を掛けた。

私がどこからこんなに急いで帰って来たのか、その人は知っていた。私と男だけが、そのことに気が付いていないだけであった。

宇野千代『生きて行く私 [新装版]』(上/毎日新聞出版)
宇野千代『生きて行く私 [新装版]』(上/毎日新聞出版)

私と佐伯とのことは、村中で知らぬものはないようになった。不思議なことであるが、その頃になっても、二人は、これからどうするのか、話し合ったことはなかった。

「結婚しよう」などとは、一度も話し合ったことはなかった。佐伯は口数が少ないために、そのことを切り出さないのであった。

私もまた、佐伯を好きであればあるほど、それを言わないのであった。

しかし、男をこんなに愛していて、それでも結婚は望まない。そう言う娘が、どこの世界にいるだろうか。

佐伯はそう言う私を見て、思慮深く、結婚しようとは言わなかったのか。ひょっとしたら、佐伯は佐伯で、何か考えがあったのに、私だけが、それに気付かなかったのか。

それどころか、男が結婚しようと言わなかったことで、却かえって、安堵あんどの胸をなで下ろしていたのか。

諭旨免職の「罰」をうけたときの心情

或る日のことであった。私は学校へ出るとすぐ、校長室へ呼ばれた。

「まことにお気の毒なことじゃが、ああたは、今学期一ぱいで、この学校をやめて貰わんけりゃならんことになりましてのう。郡役所からの命令で、どうにもならんのですわい」と言うではないか。

六、七十年もの昔のことである。小学校の教員同士の恋愛は法度はっとであった。そして、そう言うときにも、男の方は見逃され、女の方だけが罰則をうけた。私は諭旨ゆし免職になったのであった。

私の知ったのは、罰則をうけたのは私ひとりで、佐伯には、何の咎とがめもない、と言うことであった。

ああ、あの人には何事もなかった。もし、あの、思慮深い人が罰を受けるようなことがあったら、どうなるか。想像も出来なかった。

ひょっとしたら人々は、私ひとりが男を誘い込んだのだと見たのか。そうであっても好い。いや、そうであった方が好い、と私は思ったのであった。

この処置によって、男が少しも傷つかなかったのを、私はどんなに喜んだか知れなかった。

宇野千代の生家(山口県岩国市)
宇野千代の生家(山口県岩国市)(画像=Heartoftheworld/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)
宇野 千代(うの・ちよ)
小説家・編集者・デザイナー

1897(明治30)年、山口県岩国市生まれ。岩国高等女学校卒業。1921(大正10)年、『時事新報』の懸賞小説で「脱脂の顔」が1等に入選。小説を発表しはじめ、1930(昭和5)年、『罌粟はなぜ紅い』を中央公論社より刊行。1935(昭和10)年に『色ざんげ』を刊行し、1936(昭和11)年、雑誌『スタイル』を創刊。1957(昭和32)年、60歳のときに発表した『おはん』で第10回野間文芸賞を受賞。1983(昭和58)年、86歳で『生きて行く私』を刊行。100万部を超えるベストセラーになる。1996(平成8)年、急性肺炎のため死去。享年98。