「やりたいことはやる」性質の父と娘

あとで人から聞いたところによると、父はこの、博奕の常習者であったと言う。これらのことは凡て、父の亡くなったあと、誰言うとなく私の耳に入った噂話であったが、父はその若かった頃から、自分のしたいと思ったことは何でもしたと思う。父にとって、これはしてはならない、と言うことは、何もなかったように見えたと言う。

ここまで書いて来て、おや、この父のことは凡て、この私のことではなかったかと、思わず私はぎょっとした。私も賭事が好きで、そして、若い頃から自分のしたいと思うことは何でもした。無頼な父の性質をそのままに受け継いで生きて来たのであった。いま、そう言う自分を制御出来ているのは、ただ、満八十四歳という、この私の年齢のせいだけではないかと考えると、私とは反対に、まだ壮年の半ばで死んだ父が排撃され、私がそうではないと思うと不思議である。

レストラン入口
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妓楼通いをしていた父の都市伝説

父の生涯については、さまざまな伝説がある。人々はその噂話をするとき、人の風上にもおけぬ男の話をするのではなく、或る畏敬の念をもって話し合っていたように見えた。母さえも私に父のことを話すときは、まるでそう言う父のことを自慢してでもいるような口調になるのであった。父はよく大名小路と呼ばれているこの町の花街へ通った。そこでは気難し屋の客としてではなく、ひょうきんな遊び人として通っていたと言う。或るとき父は、その花街の「半月庵」と言う料亭で、おおぜいの客をしたことがあった。父は料理番とはかって、客の吸物椀の中に、かえり立てのひよこを入れておいたと言う。客が椀の蓋をとったとき、まだ羽毛も生え揃わないひよこが、ぴよぴよと鳴いて出たと言う。

ひよこ
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働かない父、家は貧困に陥って…

宇野千代『生きて行く私』(KADOKAWA)
宇野千代『生きて行く私』(KADOKAWA)

面白い話であるが、半分しか信じない人もいる。膳部を座敷に運んで来て、客の一人一人の前におき、客が椀の蓋をとるまで、椀の中のひよこが動かないでいただろうか。これもまた、父のために作られた伝説の一つであった。それにしても私の家には、家族の生活費と父の放埒とを賄うほどの金がいつでもあったのだろうか。

私の記憶では、毎月の朔日ついたちと十五日とに、高森から状箱に入れた金が届いて来た。父は分家したとき、応分の財産を高森から分けて貰っていた筈であるのに、長い無為徒食の間に、使い果たして了しまったと言う。では、状箱の中の金は何か。財産を使い果たしたのちに、また改めて、送られて来た金だろうか。私たちはそれについては何にも知らなかった。しかし、実に眼にもとまらぬほどの緩慢さで、私の家は貧しくなって行ったのであった。

宇野 千代(うの・ちよ)
小説家・編集者・デザイナー

1897(明治30)年、山口県岩国市生まれ。岩国高等女学校卒業。1921(大正10)年、『時事新報』の懸賞小説で「脱脂の顔」が1等に入選。小説を発表しはじめ、1930(昭和5)年、『罌粟はなぜ紅い』を中央公論社より刊行。1935(昭和10)年に『色ざんげ』を刊行し、1936(昭和11)年、雑誌『スタイル』を創刊。1957(昭和32)年、60歳のときに発表した『おはん』で第10回野間文芸賞を受賞。1983(昭和58)年、86歳で『生きて行く私』を刊行。100万部を超えるベストセラーになる。1996(平成8)年、急性肺炎のため死去。享年98。