40歳の父と17歳の養母はうまく行かず…
「私はぎょっとした」
しかし、この母が父のところへ来たときには、ただの十七歳の娘であったのに反して、父はその半生を、家と言うものを持たず、諸々方々を放浪して、放蕩無頼な生活をして来た四十男であった。二人の間では、生活の感覚がことごとに食い違っていた。夜半、ひそかに泣いている母の声を、私はしばしば聞いた記憶がある。或る夜更け、台所の雨戸を開けて、母はその生家へ逃げ帰ったのであった。
母の生家は、川西の家からほんの一里(約四キロメートル)しか離れていない、川下と言う村にあった。そのほんの一里しか離れていないところにあったのに、母の家の人たちは、父がどんな男であったか、話にも聞かなかったのであろうか。話に聞いていたのは、父があの、高森の宇野と言う近在に聞こえた分限者の家の次男である、と言うことだけだったのであろうか。しかし、いまから七、八十年もの昔の田舎では、こんなことは珍しいことではなかった。「お母、お母」と言って私は、母を追うて泣いたと言う。
泣いて母を追いかけ、母は宇野家に戻った
泣き叫ぶ私の様子があんまり可哀そうなので、その頃うちにいた女中の一人が、私を背負って川下の母の家まで行ったと言う。母の家は竹藪の続いている堤の下にあった。いまでも私は、あのときの竹藪のざわざわと鳴る音が、耳に残っているような気がする。母は私に会いに出てくれた。「あのとき千代さんが、わしを追うておいでんかったら、わしはこの家には戻らんかったかも知れんでよ」。母は私が大きくなってからも、よくそう言って笑った。しかし母は、私があんなに母を追うて泣いたのを、恨んでいるのではなかった。そのあと続けて、多くの弟妹たちを生んだ母は、私を恨む替わりに、自分の運命を耐え抜き、あるいは甘受したかに見えたのであった。
さて、私は父についてはどんな記憶を持っていたか。不思議なことであるが、父について思い出そうとすると、ことことと馬が何かに足を打ちつけているような音が聞こえて来る。その音は家の裏にあった馬ん駄屋と呼ばれていた馬小屋の中から聞こえて来る。しかしその馬小屋は、私がもの心ついた頃には、藁屋根がいまにも崩れ落ちそうになっていて、その中には馬はいなかった。父は馬を飼っていたのか、いなかったのか、不思議なことであるが、この家では、父のことについて、何か訊いたりする習慣がなかった。私の記憶では、母にさえ訊いたことがなかった。それは雨か雪か、明日の天気のことを人に訊いたりはしない、農夫の心に似ていた。
父は家庭では人を寄せ付けなかった
私の記憶の中の父は、いつでも、時計の間と呼ばれている、時計のかかっている部屋に坐っていた。時計の間からは庭の泉水が見える。泉水の中には大きな鯉や金魚が泳いでいる。その向こうの蜜柑畑には蜜柑だけではなく、仏手柑、まろめろ、その他珍種の柑橘類が植えてある。葡萄の棚も見える。時計の間からは、家の内外が凡て見える。父はそこで、唇を固く結んだ一種独特の表情をして坐っていた。言って見ればそれは、人を近づけぬ表情であった。そんな父が、その飼っている馬や金魚や、その他珍種の柑橘類などに対しては、朝夕、手を尽くして世話をしている有り様は不思議である。人間を拒否する度合いに准じて、動植物には手を尽くしているように見えたからである。
子どもの遊びには参加できなかった
私は変則な子供時代を送った。学校から家へ戻ってからも、一ぺんもそとへは出なかった。父がそう命令したのかどうか、とにかく表へは出なかった。こんな小さな町でも昔は、でこ廻しや猿芝居が流して来ることがあった。うちのすぐ前は古手屋と言われていた古道具屋で、そこで道が斜めになっていて、ちょっとした広場がある。きまったように流しはそこで荷を下す。「東西、東西」と言って拍子木を叩く。たちまち子供たちが寄って来て、騒ぐ声がする。しかし私は一ぺんも、それらの仲間になったことはなかった。「東西、東西」と呼ぶ声は、私のためではなかったからである。
その頃のことを考えても、それでは私があんまり可哀そうだ、などと私は考えたことはない。父はああ言う躾け方が、子供たちにとって最適だ、などとさえ思ったのではなかった。いや、躾けよう、などとさえ思ったのではなかった。ただその性格から、いつでもそう言う命令しか下さなかったようなのであった。
ギャンブルで警察に捕まった父
或るときのことである。父は家を出て行ってから二日も帰って来ないことがあった。警察から知らせがあって、父はそこに留められているのだと言う。私は母に連れられて、その父のために弁当を持って行った。警察は臥龍橋の向こうの袂にあった。川西から行くと、行く手にその白い建物が、いかめしく見えていた。
あとで聞くと父は、どこかで博奕(博打)をしていて、挙げられたのだと言う。博奕とはどう言うことをするのか、私は知らなかった。暗い一室の中で、あの、うちにいるとき、時計の間で坐っているのと全く同じ表情をして坐っている父を見て、法律で禁じられたことをして挙げられたのだ、などとどうして思えよう。
「やりたいことはやる」性質の父と娘
あとで人から聞いたところによると、父はこの、博奕の常習者であったと言う。これらのことは凡て、父の亡くなったあと、誰言うとなく私の耳に入った噂話であったが、父はその若かった頃から、自分のしたいと思ったことは何でもしたと思う。父にとって、これはしてはならない、と言うことは、何もなかったように見えたと言う。
ここまで書いて来て、おや、この父のことは凡て、この私のことではなかったかと、思わず私はぎょっとした。私も賭事が好きで、そして、若い頃から自分のしたいと思うことは何でもした。無頼な父の性質をそのままに受け継いで生きて来たのであった。いま、そう言う自分を制御出来ているのは、ただ、満八十四歳という、この私の年齢のせいだけではないかと考えると、私とは反対に、まだ壮年の半ばで死んだ父が排撃され、私がそうではないと思うと不思議である。
妓楼通いをしていた父の都市伝説
父の生涯については、さまざまな伝説がある。人々はその噂話をするとき、人の風上にもおけぬ男の話をするのではなく、或る畏敬の念をもって話し合っていたように見えた。母さえも私に父のことを話すときは、まるでそう言う父のことを自慢してでもいるような口調になるのであった。父はよく大名小路と呼ばれているこの町の花街へ通った。そこでは気難し屋の客としてではなく、ひょうきんな遊び人として通っていたと言う。或るとき父は、その花街の「半月庵」と言う料亭で、おおぜいの客をしたことがあった。父は料理番とはかって、客の吸物椀の中に、かえり立てのひよこを入れておいたと言う。客が椀の蓋をとったとき、まだ羽毛も生え揃わないひよこが、ぴよぴよと鳴いて出たと言う。
働かない父、家は貧困に陥って…
面白い話であるが、半分しか信じない人もいる。膳部を座敷に運んで来て、客の一人一人の前におき、客が椀の蓋をとるまで、椀の中のひよこが動かないでいただろうか。これもまた、父のために作られた伝説の一つであった。それにしても私の家には、家族の生活費と父の放埒とを賄うほどの金がいつでもあったのだろうか。
私の記憶では、毎月の朔日と十五日とに、高森から状箱に入れた金が届いて来た。父は分家したとき、応分の財産を高森から分けて貰っていた筈であるのに、長い無為徒食の間に、使い果たして了ったと言う。では、状箱の中の金は何か。財産を使い果たしたのちに、また改めて、送られて来た金だろうか。私たちはそれについては何にも知らなかった。しかし、実に眼にもとまらぬほどの緩慢さで、私の家は貧しくなって行ったのであった。
