城の近くに家臣を住まわせる利点

まず平成以降の発掘調査で、小牧山の南側に東西約1キロ、南北約1.3キロにわたり、臨時の城とは到底思われない本格的な城下町が展開していたことがわかった。上級武士の居住区と考えられる大きな地割、下級武士団の居住区であろう短冊形の地割の密集地区、商家や職人の家が並んでいたと思われる街区など、職能ごとに居住区が整然と分けられていた。

要するに、原野にゼロから町を造成し、家臣のほか町人たちも集住させたのだ。大名の居城の周囲に家臣や町人を集住させた、江戸時代以降の城下町と同じ発想で、近世の先駆といってもいい。そこには市場が開かれ、商業や経済活動も重視された。おそらく寺社などもある区域にまとめられ、信長の権力の支配下に組み入れられたことだろう。

だが、家臣団を集住させたことのメリットが、信長にとってなにより大きかったと思われる。3年前の桶狭間合戦に際しては、自分の領内に今川義元の軍勢が進攻しても、家臣たちは各地に散っていて、彼らを集めて兵力を迅速に動かすのにどうしても時間がかかった。こうしたデメリットの解消は、信長の悲願だったに違いない。

家臣団をスムーズに移転させるために信長が弄した策が、『信長公記』に記されている。最初、清須の17キロ北東の標高300メートル近い二宮山への移転を告げ、家臣団が困惑したところで、より近くて標高は低く、清須とは川でも結ばれた小牧山に変更すると伝えたという。それなら引っ越しも楽だと家臣たちはよろこんだが、信長のねらいは最初から小牧山だった。最初に高いハードルを示し、それを下げて反対意見を封じたというのだ。

「見せるための石垣」

冷徹な合理主義による移転だったとわかるが、城の構造にも、信長がめざした権力のあり方が明瞭に示されていた。城下町から中腹まで、幅が約5メートルの大手道が250メートルにわたって真っすぐに伸び、道の両側には上級家臣のものと思われる屋敷が並んだ。そこまでは自由な往来も可能だったものと思われる。

ところが、その先は大きく右に折れ、それから山頂までは道が3回屈折し、侵入がきわめて困難になっている。信長は最高所にもうけた自分の居所を、ほかのエリアと隔絶させて絶対性を高め、圧倒的に求心的な支配体制を、城の構造をとおして示したのだろう。これもまた、信長らしい合理的主義の表れだといえる。

しかも、信長の居所にあたる主郭部は、巨石を積み上げた2~3段の石垣で囲まれていた。なかでも目立って巨石ばかりが積まれた最上段は「見せるための石垣」で、家臣に対しても敵に対しても、信長の圧倒的な力を知らしめるねらいがあったと考えられる。

この当時、こうして石垣で囲まれた城自体が、まだほとんどなかった。そんななか、中世を通じて近江(滋賀県)の守護だった佐々木六角氏の居城の観音寺城(滋賀県近江八幡市)は、全山が石垣で積み固められたという点で、先駆的な城として知られる。だが、城全体としては、山の斜面に無数の削平地がもうけられ、それらと主郭との差が小さい。これは権力構造が求心的ではなかったことの表れである。

観音寺城 石垣
観音寺城 石垣(写真=ブレイズマン/PD-self/Wikimedia Commons

この時代、観音山城よりは主郭の求心性が高い戦国大名の城もあったが、いずれも小牧山城ほど圧倒的ではない。信長にとっては、自分自身に権力を集中させるためにも、小牧山城への移転は必須だったということだ。その目論見があったから、清須城に中途半端に手を加えるのは避けたのだろう。