最短4年で本拠地を移した
あらためて信長の居城の移転について整理しておこう。織田一族の争いから一歩抜け出し、那古野城(名古屋市)から、それまで守護所(尾張国の守護の拠点)だった清須城に移ったのが弘治元年(1555)で、その8年後の永禄6年(1563)に小牧山城に移転した。その4年の永禄10年(1567)には岐阜城に引っ越し、さらに8年半後の天正4年(1576)からは、安土城を本拠とした。
こうしてみると、信長が早くて4年、長くても8年余りで居城をより西方に移していたことがわかる。そこには、京都により近く、という意志もうかがえるが、それ以上に、信長のほかの大名にはない先進的かつ合理的な戦略が見えてくる。
その戦略は、清須城から小牧山城への移転を考察するとよく理解できる。最初に、信長が居城にしていた当時の清須城が、どんな城だったのかを概観しておきたい。
発掘調査で、二重の堀に囲まれた約200メートル四方の敷地が確認され、これが信長の居館跡だと推定されている。室町時代における守護の館の典型的な形式で、周囲の城下町も発展していなかったと考えられている。したがって、家臣団も城下町に集住しておらず、清須にも屋敷はあったとしても、日常的には周辺に散らばる自分の領地に常住していたと考えられる。寺社もさまざまな特権を維持し、やっかいな存在だっただろう。
決して通過点ではなかった小牧山城
それなのに、信長が清須城を大改修したり、城下町を整備したりした痕跡はない。代わりに尾張をほぼ制圧した段階で、だれもが尾張の中心と認識していた清須をあっさり捨て、小牧山にまったく新しい城と城下町を築いたのである。
小牧山城は比較的近年まで、特筆すべき城とは考えられていなかった。昭和54年(1979)に刊行された『日本城郭体系9 静岡・愛知・岐阜』には、次のように記されている。
「永禄三年(一五六〇)五月、桶狭間の戦いで今川義元を倒した織田信長は、美濃の斎藤龍興と対抗するため、同六年、小牧山に新城を築き、清須から移った。尾張平野中央部にある標高八五mの小牧山は、平野を一望に見下ろす要害の地である。山を五段に分けて曲輪とし、堀と塁を造り、山麓に三重の堀と西部に総構えの長堀を設けた。/永禄十年、信長は、斎藤龍興の居城、美濃国稲葉山城を攻略して移り、小牧山城は廃城となった」
単なる通過点にすぎないような淡白な説明なのは、美濃を攻略するための臨時の城に近いと考えられていたからだ。ところが、小牧山城のイメージは最近、「信長、恐るべし」とばかりに劇的に変化している。