信秀は主家に裏切られ、道三と同盟

天文17(1548)年11月、斎藤道三が織田家の守る美濃大垣城(岐阜県大垣市)を攻略したため、信秀は後方支援のために美濃に攻め入っている。ところが、留守となった古渡城下を、こともあろうに主家・清須織田家が放火し、信秀は帰陣を余儀なくされる。

斎藤道三像(常在寺蔵の模写)東京大学史料編纂所
斎藤道三像(常在寺蔵の模写)東京大学史料編纂所(写真=Gameposo/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

その頃、清須織田家の家老たちは、信秀の擡頭たいとうを懸念していたらしい。そこで、道三は清須織田家と信秀の切り離しにかかったのだ。信秀は家老・平手ひらて政秀に命じて美濃齋藤家と同盟を結び、嫡男・信長と道三の娘(濃姫)との縁談を整えた。

翌天文18年頃、信秀は古渡城を破却して、末盛城(名古屋市千種区城山町)に本拠を移した。末盛城への移転は、一般に今川家対策とされている。しかし、清須織田家と対立しはじめた時期を考えると、むしろ信秀は清須織田家を警戒して古渡から末盛へと移転したと考えるべきであろう。

当時の清須から東へ向かう街道は二本あり、一つは古渡から熱田を経由して鳴海に続く道。そして、もう一つは那古野から末盛を経て岩崎へと抜ける道である。清須から古渡までは一本道だが、末盛であれば、間に那古野城があり、城主・信長が清須織田家からの進軍を食い止めることができる。

信秀は信長・信勝兄弟を残し死去

このことは、講和した後も信秀は清須織田家を信頼しきっておらず、両者の間に緊張関係が横たわっていたことを示唆する。そして、それは清須織田家にとっても同様であろう。ところが、信秀はそれを解決することなく、天文21(1552)年3月に死去してしまう。末盛城(とそれに附属する家臣たち)は信長の弟・織田信勝が継承した。

【図表2】尾張・織田家の居城