父親が抱えていたやっかいな領土

信長と信勝(のちに達成、信成と名を変える)は母親も同じ兄弟だった。2人の実父の織田信秀が天文21年(1552)3月、数え42歳で病死すると、家督は信長が継いだ。しかし、当時の織田家はかなり不安定な状況にあった。

一口に「織田家」といっても複数の家があった。信長が継いだのは「織田弾正忠家」といって、いくつかある庶家のひとつで、本家筋は織田大和守家だった。そして、弾正忠家の支配領域が政治的にも軍事的にも不安定であったことが、その家内の安定を欠くことにつながっていた。

具体的には、鳴海城(名古屋市緑区)を中心とした鳴海領が、今川家との「境目」(複数の大名勢力にはさまれ、常に争いの対象になった地域)だったので、今川家との争いの最前線と化し、それをめぐって家内の意見は分裂しがちだったのである。

天文20年(1551)の2月までに、弾正忠家は今川家と和睦を結んだようだが、すでにそのとき、信秀には回復の見込みがなかったと思われる。このため、信勝は独自に活動を開始し、この時点で弾正忠家の内部は、信長を立てる勢力と信勝を立てる勢力に割れてしまっていた。そして信秀が死去すると、前述のように信長が家督を継いだものの、信勝は相変わらず末森城(名古屋市千種区)で、一定の勢力をたもつことになった。

城山八幡宮
城山八幡宮(写真=Bariston/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

弟・信雄との敵対関係が明白に

そんな状況だから、織田弾正忠家の内部は周囲には、バラバラであるように映ったに違いない。前述の和睦の際には、鳴海領に勢力をおよぼしていた山口氏という国衆(有力な在地領主)が、織田信秀と今川義元とのあいだを仲裁したのだが、弾正忠家が割れているのを見て見限ったのだろう。山口氏は今川方に付いてしまった。

いったんこうなると、織田弾正忠家の周囲の他勢力も勢いづいてしまう。今川家の尾張への侵攻が盛んになり、主家筋の織田大和守家も信長に真っ向から敵対し、弾正忠家の城を攻撃するようになった。大和守家はさらに、尾張国(愛知県西部)守護の斯波義統を、清須城(愛知県清須市)で殺害する。

そこで信長は、斯波義統の嫡男の義銀を庇護して織田大和守家を討ち滅ぼし、義銀を担いで清須城に入った。ところが、今度は岩倉城(愛知県岩倉市)の織田伊勢守家、さらには弟の信勝と彼をもとに付く弾正忠家の家臣たちが、あからさまに信長と敵対した。

このころの信長は、まさに四面楚歌の状況だったといっていい。信長の舅にあたり、信長にとっては貴重な後ろ盾だった美濃(岐阜県南部)の斎藤道三も、弘治2年(1556)4月に嫡男の高政(のちの義龍)に敗れて死去し、斎藤氏も敵に回ってしまっていた。