家は徹底して和風に
セツの養父母の同居は、ハーンにとって好都合だった。とくにトミが家事をはじめ、家中のほとんどを取り仕切ってくれたので、セツはハーンの身の回りの世話と、ここから二人三脚で進めていくことになった執筆の手伝いに専念できたからである。
また、暮らしは松江にいるときよりも若干、西洋風に振れたようだ。ハーンのひ孫の小泉凡氏は『セツと八雲』(朝日新書)に次のように書いている。
「やがて西洋料理の調理人を雇い入れ、パンやステーキなどの食事をつくってもらいました。その方が経費が抑えられたようです」「この時期のスケジュールとしては、朝6時ごろにセツに起こされます。神棚に拝礼してから、パンに卵、コーヒーの軽い朝食を取ります。セツが持ち物を渡したり、ポケットに気をつけたりと世話をして洋服に着替えます。家の人々に見送られながら、人力車に乗って出勤します」
松江の西洋料理屋から「松」という女中を引き抜き、わざわざ呼び寄せたりもしているが、彼女は西洋料理の調理にも長けていたということだろうか。
しかし、若干の西洋風は取り入れても、家は断固として和風にこだわった。第五高等学校にある外国人教師向けの洋館も見学したが、畳の部屋がないのを理由に断り、松江で暮らしたのと同様の、武家屋敷風の家を探したのだという。
「日本で住んでいた一番興味のない都市」
そんなハーンにとって、熊本は魅力的に映らなかったようだ。前出の『セツと八雲』によれば、ハーンは「ばけばけ」の錦織友一(吉沢亮)のモデルで、日本における最大の親友だった西田千太郎に宛てた手紙に、熊本は「わたしがこれまで日本で住んでいた一番興味のない都市であることに変わりありません」と書いている。
また、『古事記』の英訳者で、日本研究の大先輩であるB.H.チェンバレンに宛てた手紙でも、次のように吐露している。「人生に生きる目的を与えてくれたのはゴーストです。(略)彼らは私たちに生きる目的、自然を畏怖することを教えてくれました。ゴーストもエンジェルもデーモンも今はもういません。この世の中は電気と蒸気と数字の世界になってしまいました。それは味気なく、空しいことです」。
「神々の国の首都」と呼ばれた松江は、ヘブンが滞在した当時、城下町の佇まいがよく残っていただけでなく、杵築大社(現・出雲大社)を筆頭に、古代からの記憶とつながる旧跡が周囲にたくさんあった。
一方、明治10年(1877)の西南戦争で城はもとより、城下町も焦土と化した熊本には、すでに古き良き日本の面影は希薄だった。また、天守をはじめ主要な建物が焼け落ちた熊本城には、陸軍第六師団の司令部が置かれ、市内にはいつも兵隊があふれていた。そういう熊本が、ハーンには耐えられなかったようだ。