「読力」はあるのに「解」が抜け落ちている
表情や行動など表面的に見えているものからは、思考の内容は判別できません。子どもたちは小学校中学年になれば教科書は問題なく読めるようになります。
しかし、この「音韻符号化」は、「理解」を前提にしていません。あくまでも文字記号を音声記号に変換する作業に限定しています。
そして「音韻符号化はできているが、心内表象化ができていない」、という状態が生じるのです。
これを「読解力の欠如」と表すこともありますが、正確にはそうではありません。彼らには少なくとも「読力」はあるのです。しかし、「解」の字が抜け落ちているのです。
国語の教科書を、すらすらと読んでいる子どもの様子を目の当たりにしている先生、あるいは親たちはどう感じるでしょうか。おそらく、「この子は読める」と判断するでしょう。
一般に「読める」とは「理解する」を含意しているので、読んでいる子を見れば、それは「分かっているんだ」と判断するのは、極めて自然なことです。
しかし、現実には「音韻符号化」と「心内表象化」は2つの別の作業であることを、教育現場も親たちも理解しなくてはいけません。
このことに気づかなければ「読めるけど分からない」という子どもの状態が、「読解力の欠如」という誤った判断、そして、それに基づく対策として、読書量を増やすという安易な策に委ねられるか、あるいはまったく気づかれないまま放置されてしまうのです。
結果、「理解力」が未熟なことに、先生も、親も、さらには当の子どもたちも気づかないまま「何かがおかしい」状態で学年だけ上がっていくのです。
これでは、受験どころではありません。しかし、試験の期日は迫ってきます。
そして、学校教育も塾も理解力の低い子どもたちに対応すべく、「記憶」に頼る教授法が広く行われるようになるのです。
「好きな本を読めばよい」というワケではない
さて、それでは理解力を高める取り組みです。
国語力についてはさまざまな研究が行われています。理解力に焦点を当てているものは限定的ですが、国語の成績と他の教科の成績との関係、あるいは国語の成績と、読む、書く能力などの関係の調査は多くあります。
調査の中には読書量と国語の成績の関係、幼児期の絵本の読み聞かせとその後の国語力の関係など興味深いものもあります。
これらの研究から、読書量と国語の成績に関しては相関が観察されています。
つまり、本をたくさん読めば国語の成績が高まる傾向にあるようです。
しかし、その他の調査を見ると、読書は確かに語彙力には大きな影響を与えるようですが、国語力そのものに対しては、読書の対象(ジャンル)が大きく影響するようです。
絵本や小説でも語彙の強化は可能ですが、直接理解力の向上にかかわるジャンルは、説明文であるという報告もあります。
読むこと自体は国語力にプラスに働きますが、こと理解力に焦点を当てると、好きな本を読めばよいのではなく、読書対象の選択に注意が必要なようです。

