国家に教育される筋合いはない
もちろん、スタート当初はどんな組織にも魂が宿っているものです。「紳士たれ」と説いたクラーク博士の札幌農学校も、建学の精神を拵えた大学も、ビジョン・ミッションを掲げた企業も。自由・平等を建国の理念として掲げ独立を宣言したアメリカも、「尊王攘夷」を叫んだ明治維新の志士たちにしてもそうです。(※9)
しかし、創始者が不在になり、精神性のバトンが引き継がれなくなると、ココロが残らずハコだけ残るようになります。人工物である手段は残っても、魂が抜けきってしまうのです。札幌農学校は、クラーク博士なきあと、ルールだらけになってしまったといいます。(※10)
だからこそ、社会の魂を受け継ぐためにも教育があるわけですが、その教育が国家の人質になってしまっては、元も子もありませんね。
手段が人を振り回す。尻尾が犬を振るとは、本末転倒です。
国家とは民の保護と繁栄のために人類が編み出した技術ではあります。ですが、国家に人々を保護する資格はあっても、教育する資格はあるのでしょうか。少なくとも、人々の賛同を得ず好き勝手に教育する資格はないでしょう。その意味で、教育は契約外であり、反則技であり、余計なお世話といえます。私たちは元来、国家に教育される筋合いはないのです。
9:「どんな教育上の改革も、最初は最高の熱意をもった教師によってはじめられて、うまく行くものである」(『成熟社会 新しい文明の選択』D・ガボール(講談社、1973年、175頁))。
10:「彼が日本を去ったあと、すぐに校則が作られるようになった。クラークが権威でまとめていたあと、権威を持たない人が、あとをついで校長の地位についた時、まず必要だったのは規則さ」(『権威と権力』なだいなだ(岩波書店、1974年、44頁))。



