戦前に生まれた黒柳徹子さんは多感な少女期に戦争を経験した。5歳のとき、結核性股関節炎で入院。一生、松葉杖になるかという大病だったが、退院後に父の黒柳守綱(ヴァイオリニスト)に言われたことが忘れられないという――。

※本稿は、黒柳徹子『トットあした』(新潮社)の一部を再編集したものです。

松葉杖を持って座っている少女
写真=iStock.com/Satoshi-K
※写真はイメージです

黒柳徹子は5歳のとき、関節炎で入院

「かくれていても、解決しないよ」

父にそう言われたのは、私が五歳過ぎ、まだ小学校に上がる前のことだ。

ある朝、幼稚園へ行く準備をしていた時、母にふと、

「ゆうべ、寝ている時に、右の足が痛かった」

と言うと、母は朝ご飯の支度をしていた手を止めて、

「夜、寝てる時に足が痛いのって、よくないって言うわ。すぐ病院に行きましょう」

きっぱりと、そう言った。幼稚園に行きたかった私は、病院へ行くのに乗り気じゃなかったけど、母のこの判断は正しくて、近所の昭和医専(昭和医学専門学校、いまの昭和大学)に連れていかれると、元気のいい男の先生が少し調べるなり、たちまち「結核性股関節炎(*1)です!」と診断を下された。

私はその場で、右足の甲や足首から、すね、膝、腰、そしてウエストまでを石膏のギブスで固められ、即入院、と決まった。右足で、ギブスから出ているのは、指先だけだった。実はこの時、父と母は、お医者さまから「お嬢さんは、治っても、松葉杖をつくことになるでしょう」と言われ、大きなショックを受けていた。

「治っても松葉杖をつくことになる」と宣告

そんなこととは知らない私は、突然、ベッドから動けないままの生活になったけど、初めての入院を面白がっていた。読書にも夢中になったし、両手にお人形さんや、ぬいぐるみを持って、お話ごっこするのも楽しかったし、看護師さんはみんな親切だしで、ベッドの上だけの生活を、あまり退屈せずに過ごせたのだ。

私だけ呑気のんきに、入院生活を続けていた、ある日。看護師さんが、隣りの病室に、私と同じくらいの年の女の子が同じ病気で入院した、と教えてくれた。どうせ、お互いにべッドから出られないのだから、きっと会うこともないだろうと、私は「ふーん」と思っただけだった。

ところが、その直後、私は猩紅熱しょうこうねつ(*2)水疱瘡みずぼうそうに立て続けにかかって(共に伝染病だから隔離される)、病室を出たり入ったりすることになった。そんな時に、私はストレッチャーか何かで運ばれながら、(そう言えば、同じ病気の女の子がいるんだったわね)と、隣りの病室をのぞいてみた。

確かに、そこには私と同じくらいの年齢の女の子が、上を向いて寝ていた。顔も見えた。細面で、きれいな、おかっぱの女の子だった。視線に気づいたか、その子も私を見た。二人とも無言のままだった。

編集部註
(*1) 肺結核などの結核菌が血液に乗って股関節に感染し、関節に炎症を起こす病気。股関節の痛みや腫れといった症状が出る。
(*2) A群溶血性連鎖球菌(溶連菌)による感染症で、主な症状は高熱、喉の痛み、いちごのように赤く腫れた舌(いちご舌)、赤い発疹。