学校というシステムの「構造的な欠陥」

家庭ごとの社会階層(社会的な立ち位置。職業の威信や年収、居住地などで社会科学の研究では指標とされる)は再生産されるものの、その事実は機会の平等を盾にとり、あくまで本人の努力・実力の問題であるとされます。ひいては異議申し立てを許さない社会を盤石なものとするわけです。

この、学校教育という機会の平等で覆い隠された、結果の不平等という問題。教育社会学が実証的に世に知らしめてくれるまで、世間はおよそ、学歴社会で勝ち残るか否かは、本人の「能力」の問題だと信じて疑いませんでした。しかし、教育社会学者が「学校システムや就労のシステムを含めた、社会システムが、構造的な公平性を失っているのに、世間は問題を個人化しているじゃないか!」というのは、じつに的を射た指摘です。

とはいえ、その後もなかなか再分配の議論や、結果の不平等にも目配りをした公平な仕組みに向けたアファーマティブな介入(より踏み込んだ積極的介入)というのは、残念ですがあまり進んでいないことも付言しておきましょう。

「学歴による分断は一層進んでいる」論

学歴社会の是非はさておき、その傾向は強化されていると言えるのか否か。ここに焦点を合わせる研究の代表格が、『暴走する能力主義』の中村高康氏や、吉川徹氏でしょう。吉川氏の『学歴と格差・不平等 成熟する日本型学歴社会』『学歴分断社会』は、格差が断絶レベルまで進んでいることをデータでわかりやすく読ませます。濱中淳子氏も『検証・学歴の効用』において、はっきりこう記しています。

「学歴の効用が増大している」

繰り返しですが、学歴を媒介した所得格差は増大しています。それを知らないふり、世のなかそんなものだろうと、学歴を媒介にした所得格差に目もくれないでい続ける限り、「能力」による学校から職業への正当な采配だと信じて、実際には不公平な競争を生涯にわたって続けさせられる……教育費の公的な負担の議論も後回しになる……。非常に暗澹とした気持ちになりますが、こうした研究も連綿と続いています。

加えて、『高学歴難民』や『高学歴ワーキングプア』、『ルポ高学歴発達障害』などの、「学歴がすべてではない説」も枚挙に暇がありません。

深い亀裂によって2つの領域に分かれた人々
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