「学歴がなくても能力があれば活躍できる」など、学歴とその後の活躍を切り離して考える声がある。しかし、組織開発専門家の勅使川原真衣氏は「親と子どもの学歴には相関関係があり、学歴による分断は進んでいる」という――。

※本稿は、勅使川原真衣『学歴社会は誰のため』(PHP新書)の一部を再編集したものです。

卒業生のシルエット
写真=iStock.com/nirat
※写真はイメージです

「あなたは仕事ができるのか?」に反論できるか

たとえば中卒でニートの人が、25歳になってはたと、まったく畑の違う、仮に日本銀行に就職したい、と思い立ったとしたら。おそらく少なくない人が、こんなことをその人に暗に明に言うのではないでしょうか。

「へ? あなた仕事できるんですか? 本当にできる人はとっくに努力してきてますけど、大丈夫ですか? 学歴である程度のあなたの頑張りと実績がわかりますけど、うーんあなたがやれるようには思えない。何か力量を証明するものありますか?」

学歴社会とは平たく言えば、こうした主張に社会的なコンセンサスが生まれている状態です。それを私は肯定も否定もしていない点は繰り返しお伝えします。私自身の視座についてはさておき、ここでは、学歴がないと、「あなたが仕事ができるのかどうなのか、信用できない」と言われてしまうことに反論がしにくいのが学歴社会である点を頭に置いておきましょう。

さて、これの何が問題か? は次の問いに続きます。

不公平な「成功」への切符

次なる疑問。そもそもいまの仕事に水路づけた立役者は学歴ですが、その学歴を手にしたことは、本当に本人の努力と実力(能力)の賜物だと、言い切れるのだろうか? という点です。

先の例の中卒で社会に出た人は、本人の希望で義務教育で学校と決別したという人もいれば、当然のことながら、事情により高校以上の学校教育を受けることができなかった場合も大いにありますよね。

学歴社会は、個人の自由意志で、未来のためにいま精一杯の努力をし、実力を磨くことがさも皆が「(やれば)できる」前提に見えますが、じつはここですでに、捨象された議論が隠れているわけです。

本人の自由意志、合理性が働かない、選択の余地がないケースもあるよね? と。なのに、いま「もらいの少ない人」は、子どものころからの継続的な努力と実力の研鑽が足りないのだから、仕方がない──そう切り捨てることは、やはり結果の不平等を放置する意味において不公平ではないか? という議論が学歴社会の学術的研究の一義です。

専門的な議論はぜひ当該の書籍や論文に当たっていただければと思います。ここでは、一般書として平易に骨子を描くことに注力しますと、

多くをもらう人は、過去からいまもずっと頑張ってきて実績を残している人である

──これを体現した学歴社会のもとでは、高い学歴を得られなかった人は、まさに努力と実力不足という判定がされてしかるべきと考えられるわけです。ですが先に述べたように、したくてもできない環境下にあることも十分に考えられるのです。