88歳の母親が脳梗塞で倒れた。一命を取り留めたが、認知症となり、倒れる前とは人が変わってしまった。すぐ怒るようになったのだ。ノンフィクション作家の野地秩嘉さんは母親をリハビリ医の権威である酒向正春さんに預けた。その結果は驚くべきものだった。新刊『サービスの達人に会いにいく プロフェッショナルサービスパーソン』(プレジデント社)より一部を紹介する――。
歩行器を使用している人
写真=iStock.com/shapecharge
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出会いから2年後、母が脳梗塞で倒れ…

ねりま健育会病院の院長、酒向正春さこうまさはるに会ったのは2014年の初めのこと。彼とわたしは総務省の東京オリンピック2020の委員で席は隣だった。

会うなり、こう話しかけてきた。

「野地さん、あなたの本と私が書いた本を交換しませんか」

大人だから「嫌です」とは言わない。「もちろんですよ」と精一杯の笑顔で答えた。

その時、続けてこう言っていた。

「野地さん、リハビリテーション医の仕事は幸せを考えることなんです」

妙な気がした。わかったような、わからないような……。病気を治すのが医師の役目だ。しかし、酒向は「幸せを考える」という。まあ、いいか。そのまま挨拶はしたけれど、ものすごく親しくなったわけではなかった。

2年ほどして、わたしの母(当時、88歳)が脳梗塞で倒れて救急車で入院した。入院したのは急性期病院だ。緊急、急病の患者が入院する病院である。患者はその後、症状が安定したら退院して自宅に帰る。ただ、脳梗塞で倒れると認知症になるケースが多く、その場合は回復期リハビリテーション病院へ移ってリハビリを行う。母親もまたリハビリ病院を探すことになった。

「酒向先生は確かリハビリ医?」

やさしかった母が怒鳴るようになった本当の理由

その頃、彼は世田谷記念病院の副院長で回復期リハビリテーションセンター長だった。

母が住む家から近く、そして病室の空きがあったから、その病院に入った。

命を取り留めたのはよかった。ただ、ひとつ、気になることがあった。倒れる前までやさしかった母が怒鳴るようになっていた。わたしに当たり散らすような状態だった。

認知症になると、仕方がないのかなと思ったけれど、酒向に「どうして、うちの母は怒るようになったと思いますか?」と訊ねてみた。

すぐに答えが返ってきた。

「お母さんは他人じゃなくて、自分自身に怒っているんですよ」

続けて、こう問いかけてきた。

「野地さん、人間にとって幸せとは何だと思いますか?」

そんなことを突然、言われても困るというのが正直な反応だった。

怒るようになった母を心配しているだけで精一杯なのに、そんな時に人間の幸せを問われても……。それよりも、怒る母をなんとかしてほしかった。

彼は微笑した。

「野地さん、私は人間の幸せって周りの人を助けてあげて、喜んでもらえることだと思うんです。幸せとは他人からお金や物をもらうことじゃありません。人は、他人に何かをしてあげられる自分自身に幸せを感じるんです。認知症の患者だって同じです。何かをして、喜んでもらいたいと思っているんです。それができない自分に怒ってしまう」

至言だなと思った。