バブル後の教訓 固定観念捨てる

77年4月、三和銀行に入社。大阪市の城東支店に配属され、本店調査部を経て、東京・堀留支店で支店長代理となる。89年9月に東京本部の企画部渉外班へ異動すると、隣の席に大蔵省との窓口役がいた。同省の英語表記の頭文字から「MOF担」と呼ばれ、接待事件で渦中に置かれた面々だ。自分は日銀が担当。許認可権や検査部隊を持つ大蔵省相手とは違い、おおらかな仕事で、いろいろな日銀マンと親しくなり、議論もしたし、飲みにもいった。その一人が、セブン銀行の初代社長で、いま会長をしている安斎隆さん。人の縁というものは、奥深い。

一度目の秘書室勤務を経て、95年7月に新宿支店の次長に出る。いくと、バブルの後始末が始まっていた。支店には、どこにも、古くからのお得意さんが支店長を囲む会があった。堀留支店のときは、集まるのは元気のいい客ばかり。当時、バブルの膨張につれ、大手銀行間の順位争いが激化した。堀留地区は、都心から近くにありながら、比較的地価が安い。でも、外資が次々に日本へ上陸し、堀留にもビルを建てたいとの需要が出た。一方で、金融は超緩和。呉服屋など昔ながらの問屋街にも、ビル化の動きが広がっていく。

三和も、トップ銀行を目指し、次第にいきすぎの面も出た。それから7年、バブルが破裂し、新宿の会にくる客はみんな、不良債権先になっていた。古い客だけに、業績を押し上げる過程で、いろいろ無理を頼んできたのだろう。口から出るのは、うまい話への期待と、返済の繰り延べ要請ばかりだった。

1年もすれば、どこかの支店長にしてくれるかと思っていたら、再度の秘書室勤務となり、冒頭の接待汚職事件に遭遇した。続いて、銀行界が膨大な不良債権に苦しみ、活路を見いだすための金融再編の時代へと突入する。

東海銀行との経営統合は、2000年1月にきた東海からの打診がきっかけだ。頭取が参加したスイスのダボス会議に同行し、夜、あれこれと話し合う。帰国後、頭取会談に臨み、いったんは東海が経営統合を決めていたあさひ銀行も加えた3行統合が決まる。だが、三和に主導権を握られるのを嫌ったあさひが、離脱する。翌春、三和と東海に東洋信託を加えた「UFJ」が誕生したが、退職してアイワイバンク銀行へ移った03年秋、金融庁による特別検査への忌避事件を契機に経営が迷走。再び捜査のメスが入り、東京三菱銀行による「救済合併」へ至る。

振り返れば、東海との統合は、歴史的必然と偶然の産物だ。どことも一緒にならず、中堅・中小企業や個人へのサービスという三和の原点を貫ければよかったが、時代の変化と人間関係の綾が、そうはさせない。バブルの消長、不良債権の重圧、接待事件の摘発や金融再編。その間の経験から、やはり、一つの固定的な観念にとらわれていてはいけない、と痛感した。正直言って、金融界は「上善如水」の心になるのが遅れ、ダメージも大きくなった。

セブン銀行は、ゼロからの出発。自分のように銀行員の経験を持つ人間もいるが、引きずっている固定観念はない。どんなに若い人の意見でも、予断なく受け止める。問題は、そのよさをどう生かすかだ。

(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
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