「既得権益」という言葉をよく目にする。霞が関の官僚組織、大手メディア、非正規雇用労働者から見た正規雇用労働者。「既得権益」はしばしば批判の対象になる。

しかし、考えてみれば、最後はみんな同じ人間。家族もいれば、友人もいる。敵をつくってバッシングしても、問題の本質は解決しない。

本当に問うべきは、私たちの「内なる既得権益」だろう。世界の見方が、固定化していないか。ある一定の価値観にとらわれてはいないか。特定の集団を「既得権益」だと叩く前に、自分たちの内面を見つめる必要がある。

今の日本は、「前例のないこと」をすることが求められている。従来の「ものづくり」にこだわっていたり、村社会の中でビジネスをやっているだけでは、先は開けない。

そんなとき、変わるためには、自分の中の「既得権益」を見直して、それを乗り越えなければならない。「既得権益」とは、つまり、「今までのやり方を続ける」ということ。そんな目で私たちの生活を見直してみれば、誰の心の中にも跳躍すべき壁はある。

官僚組織は、しばしば「前例がないからダメだ」と動かないと批判される。しかし、「現状」のやり方に安住しているのは、誰だって同じことだろう。「こうなったら良い」という未来へのビジョンは、現状という「壁」によって、往々にしてつぶされてしまう。

具体的にあるべき未来が見えているのに、それが「既得権益」の前に破れてしまう、という場合は、むしろ質が良い。問題は、現状に対する「もう一つの可能性」(オルタナティヴ)が、そもそも意識さえされないときである。

ビジネスだけではない。教育や生活スタイル、メディア、コミュニケーションのあり方まで。現状が何の反省もなく肯定され、ずるずると続いていく中で、「未来」の可能性が消えてしまう。

特定の集団だけが、「既得権益」を享受しているのではない。私たち一人ひとりの中に、「前例がないこと」に挑戦することを忌避する怠け者の心がある。そんなふうに自己反省することができて初めて、私たちは本当に変わり始めることができるのだろう。

どうしたら、内なる既得権益の壁を超えることができるか。鍵は、生きるうえでのよりどころを、形式的な肩書や組織から、実質的な知識やスキルへと変えていくことの中にある。

子どものころは毎日が「前例のないこと」ばかりだった。(PIXTA=写真)

子どもは、最初は親が与えてくれる「安全基地」を支えにして、挑戦を続ける。初めての「はいはい」、伝い歩き、よちよち歩き、すべて「前例のないこと」である。子どもは、「前例のないこと」に対して物怖じしない。

人間の脳は、内側に確固たるものがあって初めて、前例がないこと、不確実なことの中に飛び込んでいくことができる。そのことは、何歳になっても変わらない。

大人になっても、自分の挑戦を支えてくれる「安全基地」は必要である。ここで大切なのは、肩書や組織は挑戦のための「安全基地」にはなりえないということ。むしろ、現状に固執するあまり、「守り」の姿勢につながってしまう。

子どもの頃のように、肩書も組織も関係のない「裸の人間」になったときに、何ができるのか。どんな経験があり、能力があるのか。「裸の人間」としての可能性の中に、本当の「安全基地」がある。

他人の「既得権益」を批判するのは簡単である。むしろ、自分自身はどうか。「内なる既得権益」を仕分けできて初めて、私たちは本当の意味で変わることができるのだ。