そして、お礼はアメリカではなく、今度は東南アジアやインドにすればいいと思いました。それもあって、私はインドに工場を造ることにしたのです。アメリカはつねに発展していますから、恩返しは東南アジアでありインドだ、と。

インド政府と関係が悪化したことも……

工場を造って生産を始めた直後、現地では部品調達ができませんから、ほとんどの部品は日本から持っていってフルノックダウンでやっていました。それが1985年、年間生産台数が5万台を超えた頃から、日本から部品メーカーが進出してきてくれたのです。

併せて、私たちは現地の部品会社にも技術指導をしました。そうしているうちに、インドでほとんどの部品を作れるようになり、現在では現地部品の調達率は95パーセントになっています。

1990年代の半ばになると、インドで政権の交代が起こり、私たちとインド政府は、ぎくしゃくした関係になりました。政府の人たちは「スズキは暴利をむさぼっている」と考えたらしく、もっと株主配当を増やせとか設備が高すぎる、輸入部品は高すぎると言ってきたのです。

インド国営企業とスズキの合弁会社としてスタートしていて、インド政府のほうが株式を多く保有していました。しかし、運営はスズキでしたし、スズキが部品を納入していたから、彼らはスズキが儲けていると考えていたのです。

実際はそんなことはありません。利益が出たら投資をして、会社の設備を新しくしたり、人を雇ったりしていたのです。そうしないと、競争に勝てないからです。

合流しようと列をなす車(ニューデリー、2014年3月)
写真=iStock.com/JulieanneBirch
※写真はイメージです

スズキが薄利多売でやっていることはなかなかインドの官僚に伝わらなくて、私もやや感情的になり、「こんちきしょう」と思ったこともありました。

しかし、「投資が必要だ」とハート・トゥー・ハートで話をして誠意を伝えたら、「スズキは薄利多売でインド産業の技術力のレベルアップに尽くしてくれている」とやっと理解してもらえたのです。そうして一度、ぎくしゃくしたものの、仲直りしてからは順調にやっています。

「放っておけばいつか終わる」

その後、ストライキを打たれたこともありましてね。暴動も経験しましたし……。ただ、私は戦後の日本でも同じようなことがあったのを知っていましたから、対処に困ることはなかった。

戦後の日本では労働争議が頻発し、下山事件、三鷹事件のような不可解な事件も起こりました。当時の自称革新勢力が労働争議をリードして、全国の会社でストライキがあったのです。

けれども今思えば、あれは、「はしか」のようなものだった。