秋葉原事件と社会の「底の浅さ」

2005年6月の日曜日の白昼、東京・秋葉原で、25歳の青年がトラックを暴走させて通行人をはねたあと、手にしたナイフでさらに多くの通行人に切りつけ、7人を死亡させ、10人に重軽傷を負わせた事件は、残酷な行為とは別に、現代社会の「底の浅さ」を強く印象づけた。

事件直後から犯人が派遣社員で、派遣先の自動車工場(静岡県裾野市)ではいつ解雇されるかわからない不安定な環境にいたことが報じられている。彼は青森県の高校を出た後、岐阜県の自動車関係の短期大学を卒業、仙台市の人材派遣会社に登録した。その後は自動車工場のトラック組み立てライン(埼玉県)、住宅建材メーカー(茨城県)、運送会社(青森県)などを転々としている。

だから犯行の背景に個人的事情を上回るいびつな社会構造があると受け止めた人が多かった。彼の職場での人間関係は希薄であり、それをケータイ掲示板の書き込みで埋めようとしたが、それも心の空洞を埋めることはできなかったようである。

近代以前の社会では、すべてが家庭や地域などまわりの環境に埋め込まれていた。家事と職業の区別もなく、教育もまた家庭や地域で行うものだった。近代化によって職業の分化が行われ、教育も家庭から離れて学校へと移る。私たちの周辺にあったものごとがどんどん外部の社会システムへと移されていくが、そのシステムが肥大化すると社会は硬直したものになる。身の回りの生活世界はいよいよ衰え、どこにも居場所がなくなってしまうのである。

事件当時、犯人には心底から寄り添ってくれるような「重要な他者」が存在しなかったという指摘もあった。彼の寒々とした家庭環境を世間に知らせるきっかけとなった弟が後年自殺したことにも、彼を取り囲むコミュニティが崩壊していたことが感じられる。

落語の世界によく登場するかつての「貧乏」と現在の「貧困」とはずいぶん違う。貧乏はただ「お金がない」ことだが、貧困には「社会全体から排除される」意味が含まれている。現代において「金がない」ことは「仕事がない」ことに通じ、「帰る家族がない」、「住む場所がない」、「頼れる親戚がない」、「友だちがない」というふうに、社会全体のシステムから排除されてしまう。これを「社会のふところが浅くなった」と言ってもいいだろう。

もちろん現代社会の諸問題には政治的、経済的、社会的な要因が複雑に絡んでいるが、それらの動きをITが加速し、また変形もしている。サイバー空間の影響をもろに受けて、これまで当たり前だった、あるいは合理的であると考えられてきた現実世界の社会秩序やシステムが音を立てて崩れつつある。

2011年3月の東日本大震災をきっかけに、あらためて身近な人間関係を大事にすることの重要性が再確認された。いざというときに頼りになり、また頼りにせざるを得ない近くの人びととのつきあいを常日ごろから考えておいたほうがいい。というわけで、サイバーリテラシー・プリンシプル(23)は<身近な人間関係を大事にする>である。