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バブル以来の株高や大企業の賃上げが話題になる一方、インフレや円安の進行が景気の懸念材料になるといわれます。ニュースをにぎわす経済現象は身近な景気にどう結びつくのでしょうか。経済評論家の加谷珪一さんが、経済の不思議をやさしく読み解きます。第5回のテーマは、《最低賃金引き上げ》です。

なぜ最低賃金「引き上げ」が総選挙の争点になったのか?

このところ、最低賃金の引き上げが話題となっています。2024年10月に行われた総選挙では、多くの党が最低賃金の引き上げを主張するなど、一つの政治的流れとなっています。最低賃金の引き上げは経済にどのような影響を与えるのでしょうか。

最低賃金というのは、これ以下の賃金で労働者を雇ってはいけないという、ルール上の下限です。賃金水準は地域によって差があるため、最低賃金は地域の実情に沿って算定される決まりになっており、ニュースなどで耳にする最低賃金の金額は、各地域の最低賃金を平均したものと考えてください。

ちなみに現在の最低賃金は全国平均で1055円となっており、もっとも高い東京都は1163円、もっとも安い秋田県では951円と最大で212円の差がついています。

PG_加谷連載_05最低賃金

近年、日本の最低賃金は毎年のように引き上げが行われており、今年の改定は過去最大の上げ幅となりました。しかしながら、物価の高騰が激しいため、最低賃金を引き上げてもなかなか賃金が物価に追いつかない状況が続いており、石破茂首相は最低賃金を2020年代に1500円まで引き上げたいとの意向を示しました。

最終的にこの数字は自民党の公約には盛り込まれなかったものの、引き続き、政府・与党としては1500円までの引き上げを目指したい考えです。立憲民主党など野党も、各党で内容に違いがあるとはいえ、多くが1500円程度までの引き上げを主張しており、この金額が引き上げの一つの目安になっているのは間違いありません。

最低賃金が引き上げられた場合、最低賃金近くの水準で働いている人にとっては、そのまま年収増加につながります。また、会社全体で考えても、低い年収層の底上げが実現した場合、全体のバランスを取るため、給与体系の見直しにつながる可能性もあるでしょう。労働者という立場から見ると、最低賃金の引き上げはメリットが大きいと考えてよさそうです。

空前の人手不足…「人件費負担増→人減らし」が進んでも失業は増えない

しかし最低賃金の引き上げは良いことばかりとは限りません。企業にとってみれば人件費はコストですから、最低賃金が引き上げられた場合、明らかにコスト増加要因となります。企業の業績が変わらない状態で賃金が上がった場合、企業の最終利益が減るので、そのまま何もしなければ業績の下押し要因となり得ます。

では、賃金の引き上げに直面した企業はどのような行動をとるのでしょうか。

企業としては最終利益を減らしたくありませんから、雇う社員の数を減らそうと試みる可能性があります。しかしながら、単純に社員数を減らしてしまうと業務が回らなくなってしまうので、企業としてはデジタル化や機械化を同時並行で進める形で人を減らそうとするかもしれません。

今まで100人でやっていた業務が、例えば80人でできることになれば、80人の賃金は上がるものの、残りの20人は余剰となってしまいます。これまでの時代であれば、余剰の20人は行き場がなくなり、最悪の場合、失業ということも考えられたのですが、今は状況が違います。

日本経済は現在、空前の人手不足となっており、どの企業でも「人手が足りない」「人手が足りない」の大合唱となっています。こうした状況で最低賃金が引き上げられ、業務の自動化が進んだ場合、余剰となった労働者は、人でなければこなせない重要な仕事にシフトしていくでしょう。

最低賃金の引き上げはすべての業界に影響を与えますから、別の会社や業界に転職した人の賃金も上がっていくと予想されます。最低賃金を引き上げた場合の最大のデメリットは失業者が増えることですが、今の時代に限ってはその心配はなさそうです。

窮余の中小企業は元請けの大企業から「値上げ」を勝ち取れるか?

最低賃金が上昇した場合、企業は別の行動を取る可能性もあります。それは元請け企業との価格交渉です。

中小企業の中には、大企業の下請け的な業務を行っているところも多く、顧客の大企業が価格の引き上げを認めないため、中小企業の収益が拡大せず、賃金を上げられないという問題が指摘されていました。こうした状態で最低賃金が上がった場合、中小企業の経営がさらに苦しくなるとの見立てが成立する一方で、逆の効果も考えられます。

最低賃金の引き上げが行われ、いよいよ中小企業の利益確保が難しくなった場合、一部の中小企業は本腰を入れて取引先の大企業と価格交渉に臨むことになるでしょう。そうなると、今まで中小企業を安く買い叩くことができていた大企業も、価格交渉に応じざるを得なくなり、中小企業の売り上げが伸びる可能性もあります。

このような形になれば、中小企業にとっても賃上げの原資が生まれてくることになりますから、日本全体に賃上げが波及するシナリオも考えられるでしょう。

変わる価値観…「コスト削減の30年」を脱し賃金アップの時代へ

これらを総合すると、最低賃金の引き上げがうまく効果を発揮するためには、コスト上昇に直面する企業がいかに自動化、デジタル化に対応できるか、また価格へのコスト転嫁を取引先としっかり交渉できるのかという部分が重要となってきます。

日本の大企業は過去30年間、コスト削減に邁進し、結果として従業員の賃金が上がらず、中小企業の業績も振るわない状況が続いてきました。一方で、大企業はコスト削減を実施した結果、増益が続き、空前の水準の内部留保を積み上げています。

これまで物価があまり上昇していなかったことから、大きな問題は発生していませんでしたが、経済の状況が変化している今、価値観のシフトが求められます。大企業にとっても、業務を支える取引先の中小企業がいなければ、スムーズに事業展開を進めることはできません。中小企業によるコストの価格転嫁の要請などには柔軟に応じる姿勢が重要でしょう。

政府も最低賃金の引き上げに加えて、中小企業のデジタル化支援なども同時に行う必要があります。一連の施策を組み合わせていけば、最低賃金の引き上げもよりスムーズに進み 、賃金全体の底上げにつながってくると考えられます。