公園での生活、困窮の日々
義父はサヘルさんの学校の手続きをしてくれたものの、躾と称する虐待を幼い連れ子サヘルさんに行い、そのうえ、あろうことか「自分の子どもではないサヘルをこれ以上は育てられない。離婚するか、子どもを施設に戻すか」とフローラさんに言い出した。
ついに耐えきれず、2人で家を飛び出し、路上生活を送ることになった。母と娘は、近所の公園の土管の中で夜を過ごした。母が土管の壁にもたれて座り、サヘルさんを膝の上に載せて抱いたまま、2人は眠りについた。母は近所のスーパーで切り落としのパンのミミが詰まった袋を50円で買ってきて、2人で分け合って食べた。
この経緯は、サヘルさんの自著に詳しい。周囲のおかげでアパートを借り、路上生活からは脱却できたが、フローラさんが必死に働いても、手にする対価はわずか。困窮生活に変わりはなく、サヘルさんは言葉も文化も未知の国の小学校で一人、孤独な毎日を強いられた。
「祖国に戻るという選択肢は母にはありませんでした。なぜなら、私が施設に戻されてしまうから。私たちは血が繋がっていないので、お母さんには親権がないのです。イランには夫と離婚したことは私が18歳になるまで、その事実を報告していませんでした。離婚を報告したら、私が連れ戻されるから。ルール違反かもしれないけれど、お母さんは私をまともな愛情がある環境で育てたかった。お母さんは私に一生を捧げる覚悟で、日本にとどまったんです。本当に苦労して、2人で生きてきた。私たちは苦労した戦友、サバイバー同士なので、家庭の中で感じるであろう、『お母さん』という安心感とは違うんです。でも、これも愛です」
幼少期から、母が家にいたことはほとんどなかった。フローラさんは、幼な児を育てるために働き詰めに働いた。
「お母さんはいつも働いていたし、必死だった母親しか見て育っていない。私からしたら、やっぱり、寂しかったよって言いたかった」
でも、「寂しい」という本当の気持ちを口に出して、フローラさんに伝えたことはない。余計な心配をかけてはいけない、必死な母の背中を見れば、当然のことだった。中学校で壮絶ないじめに逢ったことも、フローラさんには一切話していない。
「あなたは、特別な子」
「言葉として、“母”という意味はわかります。でも、自分の実体験の中で、家族ってなんだろう、お母さんってなんだろうって、よくわかっていないのも事実です。愛というものが、あまり実感できていないんです」
フローラさんはよく、サヘルさんに「あなたは、特別な子よ」と声をかけてくれた。
「母は『周りから見れば、ただの石に見えるかもしれない。でも私からすれば、あなたは石ではなく、磨けば立派な宝石になる原石なの。あなたは生き延びたことに意味があるし、私たちが出会ったことに意味がある』って、よく言ってくれた。それと、自分を育ててくれたおばあちゃんに、私がよく似ているって。『あなたは、お母さんに性格がそっくりなの。まるで、生き写し』って」
フローラさんもまた、実母の愛に恵まれない人だった。フローラさんは祖母を「お母さん」と呼び、祖母の下で育った。フローラさんが15歳のときに大腸がんで亡くなるまで、祖母は孤児院の子どもたちや路上生活者などに手を差し伸べ、「自分がやるべきことは、人を助けること」という使命を生きる糧とした人物だった。だからフローラさんも、戦争で大学院生活を続けることが難しくなった時、孤児院でのボランティアを選び、そこで運命の少女と出会ったのだ。
その祖母と別れ、15歳で戻った実家でフローラさんに待っていたものは、実母からの精神的な暴力だった。
「歪んだ愛情、言葉の暴力ですね。そういう意味では、私のお母さんの方がもっと、母というものを知らないで育っている人だと思う」


