8万の軍勢にも一歩も引かなかった

その後も正成の「謀」は冴えます。摂津(大阪北西、南西部と兵庫県東部)に侵攻した正成を討つために、六波羅探題は5000の軍勢を差し向け、川の対岸にいる正成の軍に襲いかかりますが、じつは正成は2000の軍を3手に分け、2手は隠していました。川の深みで三方から攻められた六波羅軍は、ほとんど殲滅させられてしまいます。

その後、周囲の民間人を動員し、各所で毎晩松明を燃やして脅し、相手方を不安にするという手法で、戦わずして四天王寺(大阪市天王寺区)を奪取します。

元弘3年(1333)2月以降は、下赤坂城の背後の金剛山中腹に上赤坂城、詰めの城(最後の拠点)としての千早城(ともに大阪府千早赤阪村)を築き、千早城に籠って、8万ともいわれる幕府軍を前に、例によって石やら火やらを駆使して一歩も引きませんでした。

こうして正成が幕府軍を千早城に引き寄せているあいだ、閏2月には、後醍醐天皇が流されていた隠岐から脱出し、5月には足利高氏(のちの尊氏)が六波羅を攻め落すと、その報せを受けた幕府軍は千早城の包囲を解いたので正成も勝利。そして5月22日、新田義貞が鎌倉を攻め、鎌倉幕府は滅亡したのです。

実は尊氏を味方にしようと進言していた

絹本著色騎馬武者像
絹本著色騎馬武者像(写真=国立博物館 e-museum ID : 101003/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

6月5日に京都に戻った後醍醐天皇は念願の建武の新政をはじめます。鎌倉幕府を倒した武士たちは、もちろん厚遇されると期待したでしょう。ところが、平安時代初期までのように親政、つまり天皇がみずから政治を行うことをめざした後醍醐天皇には、自分をもり立て幕府を倒してくれた武士のことが、頭になかったようです。

結局、公家ばかりが優遇され、恩賞もほとんどあたえられなかった武士たちは、不満を募らせます。こうして、あらたな武家政権樹立の機運が高まっていきます。この状況は、どう考えても、後醍醐天皇が現実を見ることができなかったことにあります。

建武2年(1335)7月、北条氏の残党が鎌倉を一時的に占拠する中先代の乱が起きます。そして、討伐に向かった足利尊氏は、建武の新政に不満を持つ武士たちの意を受け、後醍醐天皇に離反します。

その後、上京した尊氏の軍勢は、正成らの「謀」をもちいた戦いで九州へと駆逐されますが、問題はその後です。

南北朝時代の軍記物語『梅松論』には、正成が、新田義貞を誅殺してでも尊氏と和睦したほうがいい、と天皇に進言したと書かれています。事実、自身が戦巧者だった正成は尊氏を武将として、義貞よりもはるかに高く評価していました。しかし、この進言は歯牙にもかけられなかったとのことです。物語の記述だから鵜呑みにはできないとはいえ、信憑性が高いと思われます。

九州で体制を整えた尊氏が京都へと向かってくると、後醍醐天皇らは京都の外に出て、尊氏らを京都に閉じ込めて兵糧攻めに、と提案をしますが、またしても却下されたとのことです(『太平記』)。