天皇が夢で聞いたお告げ
それによれば、後醍醐天皇は夢を見たのだとか。夢のなかで天皇は、2人の童子に大きな木の南向きの枝の下に案内されたそうで、それは「木の南」、つまり「楠」の下に座って天下を治めろという神仏のお告げかもしれません。そこで天皇は、近くに「楠」という武士はいないかと聞き、河内国(大阪府東部)の金剛山(大阪府千早赤阪村)の西に、楠木正成がいると知ります。
呼ばれた正成はすぐに笠置山に参上し、討幕を成し遂げるには武力に加えて謀を巡らすべきだと奏上したとのことです。
『太平記』は軍記物語だから、こうした逸話は史実とは言い切れません。それでも、この話からは、正成という男が突如、後醍醐天皇の前に現れたということ、それから、さまざまな策略をもちいて戦ったということ。その2つがわかります。
正成の出自についてはいまも確定はしていません。楠木氏自身はその出自を、奈良時代に聖武天皇のもとで実権を握った橘諸兄だと主張していましたが、本当の祖先は駿河(静岡県東部)出身だという説が有力で、鎌倉幕府の御家人だった可能性も否定できません。いずれにしても「悪党」的な人物だったのではないかとされています。
「悪党」とはならず者やごろつきという意味ではなく、荘園領主や幕府権力の介入を排除して、みずからの土地の支配権を既成事実化していった武士の呼称でした。
「謀」が冴えたデビュー戦
さて、正成は後醍醐天皇の討幕計画に賛同して、金剛山の近くに築いた下赤坂城(大阪府千早赤阪村)に500余りの軍勢を集めて挙兵します。しかし、幕府軍は数万の規模ですから、勝負になりません。そこで前述のとおりに「謀」、つまり奇策に頼ります。
敵が城に近づけば、弓矢で応戦するだけでなく大きな石や大木を投げ落としたり、熱湯をかけたりし、さらには、吊り下げていたニセの塀を切り落とすなどして抵抗したとされます。そもそも幕府軍がこれだけの大軍勢で城を攻めたのは、正成がただ者ではないと認識していたからだと考えられ、実際、幕府軍は攻めあぐねます。
とはいえ包囲された城は兵糧にかぎりがあり、そもそも急造の城を少ない軍勢で持ちこたえるのは困難です。そこで正成は、城に火を放って脱出します。城にはいくつもの焼死体が残されていたので、幕府軍はそれが正成一族のものと判断し、湯浅宗藤に城を守らせて関東へ帰陣します。
そこに現れたのが正成でした。彼は自刃したと偽装していたのです。元弘2年(1332)4月、湯浅宗藤が城に運び込もうとしていた兵糧を奪い、それを運んでいた人夫らを自分の兵と入れ替え、城内に入って鬨の声を上げ、城を簡単に奪い返してしまったのです。このとき地元に根差した勢力だった湯浅氏を味方に取り込んで、河内のほか和泉(大阪府南西部)まで制圧してしまいます。



