直撃取材をあまりしなかった理由は何か
最後に、この映画にはアタック・ドキュメンタリーのような加害者側や権力者側への直撃取材の映像があまり含まれていないことに触れておきたい。「週刊新潮」の取材に対し、「山口氏の逮捕は必要ないと止めたのは自分だ」と答えたのは、当時警視庁刑事部長だった中村格氏だった。その中村氏への突撃取材を、伊藤氏は「週刊新潮」のチームと一緒に行っているが、その後再び自分たちのチームだけで試みた様子は出てこない。
ただ、「週刊新潮」が公開している動画によると、実際には、伊藤氏は何度も中村氏に突撃取材を試みていたようだ。だとしたら、なぜその様子も映画に含めなかったのだろうか。伊藤氏のために証言することを拒んだ刑事より、中村氏の責任は大きいように思われる。これまでの社会派ジャーナリズムや社会派ドキュメンタリーは、権力と対峙したり、権力を持つ組織の内側に踏み入るような調査報道をするのが主流だった。
二次加害された伊藤氏は深刻なトラウマを抱えている
伊藤氏はこれまで、極めて深刻な二次加害を受けてきた。日本にいられないと海外に脱出したほどだ。それを考えた時、組織の後ろ盾のない彼女がフリーの立場で加害者側や権力者側に直接挑んだら、どんなバッシングが起きるか心配したのかもしれない。しかも性加害と二次加害によるPTSDに苦しんできた経緯がある。
この映画の中で、伊藤氏は悪質な誹謗中傷にさらされたことを、あまり具体的に描いていない。詳しく触れることができないほど深刻なトラウマを抱えているのではないだろうか。しかし、まさにそうした誹謗中傷をする者こそ、伊藤氏が何としてでも証拠になる協力者の証言を集めて、裁判で勝ちたいと強く願うように追い込んだ主犯格だった。
山口氏を除くと、警視庁幹部だった中村氏と誹謗中傷を行った当人たちという「追及の対象になるべき対象」が、この映画の中心にはならない結果になったこと――それにはいろいろな理由があるだろうが、その一端には伊藤氏、そして性被害者全般に対する誹謗中傷の、あまりにも深刻な現状があるように思う。
一方でこの映画が問いかける「困っている誰かのために、リスクを負って協力できるか」という問題は、多くの人にとって簡単に答えられないものだろう。それでも、それを求めずにはいられない伊藤氏の気持ちを、この映画は表現するというより、むしろ体現している。そして、性被害を受けたのに何の正義もなされなかった無数の女性たちが、伊藤氏の背後にいる。これはずっと変わらない光景だ。
コーネル大学Ph. D.。90年代前半まで全国紙記者。以後海外に住み、米国、NZ、豪州で大学教員を務め、コロナ前に帰国。日本記者クラブ会員。香港、台湾、シンガポール、フィリピン、英国などにも居住経験あり。『プロデュースされた〈被爆者〉たち』(岩波書店)、『Producing Hiroshima and Nagasaki』(University of Hawaii Press)、『“ヒロシマ・ナガサキ” 被爆神話を解体する』(作品社)など、学術及びジャーナリスティックな分野で、英語と日本語の著作物を出版。