七転び八起きの波瀾に富んだ遍歴
その後、地元のお金持ちから将来を見込まれた菊池は、養子縁組をして経済的な支援を受け、明治大学法学部に進学しましたが、わずか3カ月で退学。さらには、兵役を逃れるため早稲田大学に籍を置きつつ、第一高等学校(現・東京大学教養学部)を受験する準備をしたのですが、これが養子縁組をした地元の養父にばれて、縁組を解消されてしまいます。
しかし、実家の父親が、貧しい状況ながら借金をしてでも学費を送ると申し出てくれたことから、菊池は22歳にして第一高等学校第一部乙類に合格。ところが卒業間際になって、盗品と知らずにマントを質入れした通称「マント事件」によって退学処分となります。
すると、今度は京都帝国大学文学部英文科に入学。ところが、旧制高校卒の資格がないため、「本科」ではなく、規定の学課の一部のみを選んで学ぶ「選科」に進まざるを得ませんでした。
そのときに短編小説『禁断の木の実』を書き上げ、日刊紙『萬朝報』の懸賞に応募したところ当選したことで、小説家としての第一歩を踏み出したのです。
その翌年には、旧制高校の卒業資格検定試験に合格して、京都帝国大学文学部英文科の本科に進むことができましたが、それにしても七転び八起きのなかなかお目にかかれないほどの、なんとも波瀾に富んだ遍歴です。
大衆小説『真珠夫人』で一躍人気作家の仲間入り
かなりの紆余曲折を経た菊池は、大正5(1916)年に京大を卒業後、昭和11(1936)年に廃刊するまで東京五大新聞(東京日日新聞、報知新聞、時事新報、國民新聞、東京朝日新聞)の1つに数えられた『時事新報』の社会部記者となり、月給25円のうち10円を毎月実家に送金していたといいます。
入社の翌年(大正6〈1917〉年)、資産家である高松藩旧藩士・奥村家一族の奥村包子と結婚。これは、生活のための“戦略結婚”ともいわれます。
お金の心配がなくなったこともあってか、このころから菊池は執筆活動に軸足を置き始めます。そして大正8(1919)年、雑誌『中央公論』に短編小説『恩讐の彼方に』を寄稿したのを機に時事新報を退社して、執筆活動に専念することにしました。
すると、その翌年(大正9〈1920〉年)、大阪毎日新聞・東京毎日新聞に連載した大衆小説『真珠夫人』が話題を呼び、一気に人気作家の仲間入りをしたのです。
このころになると日本の識字率は向上し、新聞や雑誌、小説を一部のブルジョワジーだけでなく一般大衆が読んだり買ったりする風潮ができてきました。
芥川龍之介など、名だたる作家たちと親しくしていたこともあり、タイミングを読むのもうまかったのでしょう。大正12(1923)年、菊池が35歳のときに、若手の作家たちに活躍する場を与えようと雑誌『文藝春秋』を立ち上げたのです。