ドラマや映画では哀れな最期として描かれることが多い豊臣秀吉の死に際。作家の濱田浩一郎さんは「秀吉は、死ぬ直前にも手紙や遺言の覚え書きなどを遺している。もちろん後継者の秀頼を産んだ淀君のことは尊重しているが、どちらかといえば、幼い秀頼のことばかりを案じていたようだ」という――。
淀君(茶々)の肖像画(画像=「伝 淀殿画像」奈良県立美術館収蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
淀君(茶々)の肖像画(画像=「伝 淀殿画像」奈良県立美術館収蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

死の2カ月前から食事も取れず急速に衰えていった秀吉

大河ドラマ「どうする家康」第39回は「太閤、くたばる」。豊臣秀吉の死のさまが描かれます。慶長3年(1598)8月18日、天下統一を成し遂げた一代の英雄・秀吉はこの世を去ります。

その年の6月17日、伏見城にいる秀吉は「五もじ」という女性に宛てて、一通の手紙を書いているのです。「五もじ」が秀吉とどのような関係にあった女性か、詳細は不明ですが、一説には秀吉の側室「松の丸殿」(京極高次の妹)ではないかとも言われています。

さて「五もじ」に宛てた書状には、当時の秀吉の身体状態が分かる記述が散見されるのです。例えば「十五日の間めし(飯)を食い申さず候て、めいわく(迷惑)いたし候」との一文。秀吉は6月2日ごろから、食事を満足にとることもできず、閉口していたのです。ところが、そのような状態であるにもかかわらず、秀吉は昨日(6月16日)、気晴らしに「普請場」(伏見)に出かけたといいます。

当然、無理をしたことがたたり「いよいよ次第に弱り候」というありさまになったとのこと。ちなみに「五もじ」もこのとき、何らかの病だったようで、秀吉は心配して彼女に手紙を書いているのです。秀吉というと最近、残虐・冷酷な側面ばかりが強調されますが(筆者も指摘したこともありますが)、単なる冷血漢ではなく、人情味も持ち合わせていたのです。

11カ条を記した秀吉の遺言覚え書きの内容とは?

秀吉は病の「五もじ」に対し、養生して少しでも体調が良くなったならば、自分(秀吉)のところに来てほしいと願っています。秀吉は本書状の追伸にて、この手紙は「丈夫な時の一万通に相当するものだ」と述べています。病気により、筆を執るのも大儀で、苦労して書いたことが窺えるでしょう。

秀吉は、死の2カ月ほど前から、かなり衰弱していたのです。自分はもう長くはないことを悟っていたかもしれません。7月15日、秀吉は病床で遺言を述べます。これまでの経緯からすると、声もかなり弱っていたことでしょう。その秀吉の遺言は、書き留められました。11カ条にもなる「遺言覚書」です。