関ヶ原の勝利は外交と政治によるものだった
関ヶ原の戦いは、家康にとって外交の勝利、政治の勝利であったわけで、軍事行動にそれほど見るべきものはありません。重要なのは戦いのあとです。なぜなら、関ヶ原の戦いで西軍(石田三成)を破っても、東軍(家康)の最終的勝利にはならないからです。家康の戦争目的は天下人になることであり、そのためには政敵(三成)を葬り、玉(豊臣秀頼)を手中に収める必要があります。
東軍が小山から西上したのは、最終的には大坂城に入るためです。西軍は、それを阻止するために、関ヶ原に防御ラインを敷きました。三成の目的は家康の首を取ることではなく、政権から排除することです。秀頼を握っていた三成の目論見は、天皇・朝廷を動かして政治的に勝利することであり、秀吉の小牧・長久手の戦いを模範にしていた、と私は考えています。
勝った家康は大坂城に入り秀頼の生殺与奪権を握った
大坂城には、秀頼を擁した毛利輝元の本軍がいます。そこに関ヶ原の戦いの残党が加わって籠城する可能性は十分にありました。実際、立花宗茂は抗戦を主張しています。家康にすれば、秀頼を抱えた状態で籠城されると、それまで東軍についていた豊臣恩顧の大名たちの動向が読めなくなります。もしかすると、西軍に寝返るかもしれません。
そのため、家康は本多忠勝と井伊直政を通じて、輝元の大坂城からの退去をうながしました。家康は、輝元ら西軍が出たあとの大坂城に入城すると、秀頼の生殺与奪の権を握ります。ここに家康の政治目的は達成され、勝利が確定したのです。
1960年、東京都生まれ。東京大学・同大学院で日本中世史を学ぶ。史料編纂所で『大日本史料』第五編の編纂を担当。著書は『権力の日本史』『日本史のツボ』(ともに文春新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『日本中世史最大の謎! 鎌倉13人衆の真実』『天下人の日本史 信長、秀吉、家康の知略と戦略』(ともに宝島社)ほか。