「女性は男性よりも人生が安い」のか

逸失利益とは、もともととてもセンシティブ、かつ議論の多い概念なのだという。というのも、失われてしまってもう存在しない“これから”を推定して賠償する、現実としては発生しない「if」を、いかになるべく正確に見積もるかという「蓋然がいぜん性」の議論になるからだ。

亡くなった人に収入があったなら、その時の収入額をもとに逸失利益は算出される。仮にその人がその後どれほど出世したと想像されようが、転落したとされようが、そこをなるべく揺るがさないのが、法律の枠組みを崩さず誰に対しても「法的に平等」であるための法律界の努力でもある。収入がない若者や子どもであった場合は、その属性――男女や、障害のあるなしなど――に応じて、属性グループの現実の平均年収を基準として算出する。

その際、男性ならば「男性の平均収入」で、女性ならば「女性の平均収入」で考えるのだそうだ。ほらここにも、「だってそれが現実だから」と、属性の格差がある。亡くなった時点で収入がない子どもや若者の失われた未来を「推定」するときに、属性による「現代社会での格差」を反映するのは、果たして法的平等という言葉が正しく意味するところだろうか?

亡くなった人の損害を補償するという思想の、逸失利益。既に収入の発生していた大人に対するそれが、亡くなった時点での収入を基に算出されるのは合理的だ。だが、確定された収入のない、「まだ何者でもない」子どもや若者の「まだ誰にも見えない」未来を見積もるときに、男女の別や、障害の有無を算出基準に加味するのは、何を意味するのだろうか。その金額が単なる「失われた収入」とは割り切れず、まるで「まだ何者でもない」子どもや若者のいのちの値段に差がついたように見えてしまうのは、いのちに属性をつけるからではないのか。

障害児のいのちは、健常児より安いのか。女の子のいのちは、男の子より安いのか。「収入の統計的に、それが現実だから」と言うのなら、ではまずその男女の賃金格差や、障害者の就業環境格差など、日本の現実のおかしさにも大いに疑問を喚起される。

現実の社会を生きた大人には、「死亡時点での収入」という揺るがない基準がある。だが、あらゆる可能性の塊でしかない子どもや若者がひとり亡くなったなら、その子の未来を障害の有無も男女も関係なく、全労働者の収入で考えてみる社会になってもいいのじゃないか。それが、本当にこれからの社会の誰しもに平等なチャンスを与えよう、あらゆる多様性を包摂していこうという、日本社会が持つべき意思、ベクトルのような気がしている。

河崎 環(かわさき・たまき)
コラムニスト

1973年、京都府生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。時事、カルチャー、政治経済、子育て・教育など多くの分野で執筆中。著書に『オタク中年女子のすすめ』『女子の生き様は顔に出る』ほか。