「失われた人生を算定する」逸失利益
聴覚支援学校からの下校中、重機にはねられて亡くなった井出安優香さんの両親が損害賠償を求めていた裁判で、大阪地方裁判所は今年2月27日、被告側の運転手と会社へ約3770万円の賠償を命じた。両親が賠償金として求めていた約6100万円という金額と単純に比較しても、かなりの減額であるように感じられる。
裁判の争点は「障害のある子どもの逸失利益」。もしそのまま成長して将来働いていたならば得られていたであろう生涯収入は、健常者より安く算定されるべきか否か、であった。
事故は2018年、大阪市生野区で起きた。聴覚支援学校近くの歩道へショベルカーが突っ込み、下校中だった支援学校の児童や教諭など5人が巻き込まれ、4人がけが、児童1人が死亡した。亡くなった安優香さんは当時11歳、幼少時から親子で手話や口話を習得し、公文などの習い事にも励み、文章力や学業成績でも健常児と同等の頑張りを見せていたという。
「賠償」とは、失われた人生を貨幣価値に置き換えて算定するということ、目に見えない喪失をお金で測るということだ。障害者に対する「人生の賠償」は、健常者に対する人生の賠償とは区別して考えられるべきなのだろうか、別の基準で考えるべきなのだろうか。残酷な表現をするならば「あるはずだった人生の値段」、日本社会の価値観はそれを問われたのだといえる。
11歳で「この子の人生は安い」と見積もられた
死亡事故の場合、賠償金には慰謝料と医療費や葬儀費用などが含まれるが、中でも高い割合を占めるのが逸失利益なのだそうだ。
両親は全労働者の平均年収を基準とした逸失利益を求めていたが、被告側は井出さんが障害児であったことを理由に「女性労働者の平均収入の4割」を基準に算定すべきと主張し、のちに「聴覚障害者の平均年収、すなわち全労働者の6割」を基準に、と変更した。
どちらにしても、安優香さんが聴覚に障害のある子どもであったがゆえに、健常児と同じ扱いにはならないのが通例であるというのが被告側の主張であった。安優香さんの両親は愛娘を急な事故で亡くした大きな喪失感と闘い、悲嘆に暮れる只中で、その娘がまるで「まだ何者でもない、柔らかな可能性の塊であった11歳の時点で、彼女の人生は他の健常児の何割か分の金銭価値にとどまっていた」と言われたように感じたのも、無理はない。
傷つき、憤った両親は、安優香さんには他の健常な11歳児たちと同等の学力と社会性があり、「聴覚障害があったからといって、決して健常児よりも劣っていたわけではない」と証明するために、彼女の生前のテストや作文などをかき集めて提出した(ご想像の通り、安優香さんの両親は損害賠償請求訴訟を起こして以来ずっと、ネットなどで心ない誹謗中傷を受け続けているという)。
「差別じゃねえよ、区別だろ」
結論として、大阪地裁の武田瑞佳裁判長は、逸失利益の算出基準を労働者全体の平均賃金の85%とする判断を示した。基準となる数字自体は上がり、司法の前進と受け取られた。武田裁判長は、障害を克服して社会参加できる技術の進歩や安優香さんの頑張りを鑑み「年齢に応じた学力を身につけて将来さまざまな就労可能性があった」と認める一方で、「労働能力が制限されうる程度の障害があったこと自体は否定できない」とし、障害者の労働能力が健常者のそれよりも低く、従って収入も低いということは事実として存在する(そして法はその社会的事実に従う)との司法見解が残された。
2023年の日本で、障害児に予測される人生は平均的な健常児が送る人生の「頑張って85%」という司法見解。思ったよりも高いと思うか、それともこの時代に障害の有無で「子どものいのちの価値」に差がつけられた、と憤るか。世間もまた、それぞれの意見で紛糾した。すっかり手垢のついた浅はかな表現も、ネットのあちこちでこれみよがしに湧いていた。「差別じゃねえよ、区別だろ」。もし自分が聴覚障害を持って生まれていたとして、その人は同じこれみよがしの顔つきで、そう言えるだろうか。
「女性は男性よりも人生が安い」のか
逸失利益とは、もともととてもセンシティブ、かつ議論の多い概念なのだという。というのも、失われてしまってもう存在しない“これから”を推定して賠償する、現実としては発生しない「if」を、いかになるべく正確に見積もるかという「蓋然性」の議論になるからだ。
亡くなった人に収入があったなら、その時の収入額をもとに逸失利益は算出される。仮にその人がその後どれほど出世したと想像されようが、転落したとされようが、そこをなるべく揺るがさないのが、法律の枠組みを崩さず誰に対しても「法的に平等」であるための法律界の努力でもある。収入がない若者や子どもであった場合は、その属性――男女や、障害のあるなしなど――に応じて、属性グループの現実の平均年収を基準として算出する。
その際、男性ならば「男性の平均収入」で、女性ならば「女性の平均収入」で考えるのだそうだ。ほらここにも、「だってそれが現実だから」と、属性の格差がある。亡くなった時点で収入がない子どもや若者の失われた未来を「推定」するときに、属性による「現代社会での格差」を反映するのは、果たして法的平等という言葉が正しく意味するところだろうか?
亡くなった人の損害を補償するという思想の、逸失利益。既に収入の発生していた大人に対するそれが、亡くなった時点での収入を基に算出されるのは合理的だ。だが、確定された収入のない、「まだ何者でもない」子どもや若者の「まだ誰にも見えない」未来を見積もるときに、男女の別や、障害の有無を算出基準に加味するのは、何を意味するのだろうか。その金額が単なる「失われた収入」とは割り切れず、まるで「まだ何者でもない」子どもや若者のいのちの値段に差がついたように見えてしまうのは、いのちに属性をつけるからではないのか。
障害児のいのちは、健常児より安いのか。女の子のいのちは、男の子より安いのか。「収入の統計的に、それが現実だから」と言うのなら、ではまずその男女の賃金格差や、障害者の就業環境格差など、日本の現実のおかしさにも大いに疑問を喚起される。
現実の社会を生きた大人には、「死亡時点での収入」という揺るがない基準がある。だが、あらゆる可能性の塊でしかない子どもや若者がひとり亡くなったなら、その子の未来を障害の有無も男女も関係なく、全労働者の収入で考えてみる社会になってもいいのじゃないか。それが、本当にこれからの社会の誰しもに平等なチャンスを与えよう、あらゆる多様性を包摂していこうという、日本社会が持つべき意思、ベクトルのような気がしている。