妻と息子を殺すのか? 家康の苦渋の決断

家康は、信長の命を受けてやむなく妻と子を殺害したのか、それとも自発的に殺害を命じたのか。研究者によって意見が分かれています。いずれにしても、最終的な判断は家康本人が下したと私は思っています。

安部龍太郎『家康はなぜ乱世の覇者となれたのか』(NHK出版)

大賀弥四郎事件の段階で、すでに家中が分裂していたことも、家臣や築山殿が武田方に内通していたことも、すべて事実であるならば、その責任は主君である家康にあります。しかし弥四郎事件は、一部の者が謀反を企んでいたということで幕引きされました。

ところが、長篠の戦いを挟んで、あらためてその事実が浮上し、信長の知るところとなってしまった。家康としては、自らの決断ですべてを処断する必要があったのだと思います。8月29日、築山殿は遠江の佐鳴湖に近い小藪村で処刑され、信康は9月15日に二俣城で切腹して果てました。

こうして、三十歳代の家康を苦しめた築山事件は、幕を下ろしたのです。

正式な妻と認められた2人の女性

築山殿の死後、家康は豊臣秀吉の妹・朝日姫(1543~1590)を正室にします。正室はこの二人だけで、それ以外に記録に残るだけで20人の側室がいたと言われます。

豊臣秀吉の妹、徳川家康の継室、朝日(旭)姫の肖像画(写真=南明院所蔵「旭姫像」/PD-Japan/Wikimedia Commons)
朝日姫の肖像(写真=南明院所蔵「旭姫像」/PD-Japan/Wikimedia Commons

しかし、九州大学教授の福田千鶴さんの研究によれば、彼女たちは全員が側室、つまり妾ではなく、継室と呼ぶべき正式な妻もいたようです。ここでは代表的な二人を取りあげます。

お万の方(長勝院1548~1620)。父は池鯉鮒明神の社人を務める永見貞英で、母は水野忠政の娘で於大(※家康の生母)の妹でした。つまりお万の方は於大の姪にあたります。元亀三年に浜松城の家康に嫁ぎ、天正二年に結城秀康を産みます。秀康はじつは双子で、もう一人は永見貞愛とされています。

秀康は天正十二年に秀吉の養子となり、のちに結城氏を継ぐことになります。関ケ原の戦いのおりは関東の守りを任され、その功で越前北ノ庄六十八万石の大名となります。お万の方も秀康に従い越前に移りました。そして慶長12年(1607)に、秀康は病で急死。お万の方は出家し、元和5年(1620)に北ノ庄で72歳の生涯を閉じます。

徳川二代将軍・秀忠を生んだ側室は再婚だった

お愛の方(西郷の局1552~1589)は、三河西郷氏の出身。戸塚忠春という武士に嫁ぎますが夫に先立たれ、次いで従兄の西郷義勝の妻となり一男一女をもうけます。しかし、元亀2年の竹広合戦で義勝は戦死。その後、酒井忠次の妹婿にあたる西郷清員の養女として、家康の側室となりました。家康の寵愛を受け、天正7年には嫡男・徳川秀忠を、翌年には松平忠吉を産んでいます。

安部 龍太郎(あべ・りゅうたろう)
小説家

1955年福岡県生まれ。久留米高専卒。1990年『血の日本史』でデビュー。2005年『天馬、翔ける』で中山義秀文学賞を受賞。主な著作は、『関ヶ原連判状』、『信長燃ゆ』、『生きて候』、『天下布武』、『恋七夜』、『道誉と正成』、『下天を謀る』、『蒼き信長』、『レオン氏郷』など多数。大河小説『家康』(幻冬舎時代小説文庫)を連載中。