事業を再生するためには社員にリストラを言い渡さなくてはならない。そんなつらい役回りに、どのように対処すればよいのか。天台宗の僧侶、髙橋美清さんは「仏教の『四諦したい』の教えを基に、真理を見極めながら対応するよう心掛けることで、自分も相手も納得する道が開けるのではないか」という――。

良心の呵責から「恨まれてないか」「何か憑いていないか」

私が住職を務める「照諦山 心月院 尋清寺」のご本尊・薬師如来さまに、たびたび手を合わせに来る方(仮にBさんとしましょう)がいらっしゃいます。話を聞くと、Bさんは企業の再生を請け負っていらっしゃる50代の方。経営がうまくいっていない中小企業に入り、事業を改革して再生させる仕事をされています。企業再生は社会的意義のある仕事ですし、Bさん自身もドライで合理的な考え方の持ち主です。「大局的に見ればリストラもやむなし」と、今まで数々の企業で何度も大鉈をふるってきたそうです。

しかし、肩をたたかれる側にとってのリストラは、人生を揺るがす大事件。いくらドライなBさんも、「悪いことをした」という良心の呵責かしゃくから、時に「わー」と大声で叫びだしたくなったり、「こんな仕事はやりたくない!」と苦しく思うことがあったそうです。また、お会いした当初は「恨まれていないかな?」「僕に何かいていませんか?」とよく言っていました。

その時、私はBさんに「『会社から人を追い出す』のではなく、『この人がより良く生きられる場所に送り出す』と思えば、少し心も落ち着くのではないですか?」と話しました。そして、うちのお寺の名前にも入っている「諦」の一文字を贈りました。

「諦」は「あきらめ」ではなく「真理」

ところで皆さんは、「諦」という漢字にはどのような意味があると思いますか? 「あきらめる」と読むところから、「自分の思いがかなわないから、その思いを断ち切ること」と、後ろ向きなイメージで捉えている方が多いように思います。しかし、仏教の世界でいう「諦」は違います。

天台宗僧侶の髙橋美清さん
天台宗僧侶の髙橋美清さん(撮影=プレジデントオンライン編集部)

仏教と結び付きが深い古い起源の言葉に「梵語ぼんご」があります。それを書き表す文字が「梵字ぼんじ」です。実は「諦」という漢字は、「satya(サトヤ/サティヤ)」という梵語の訳語で、そこには、「真理」「道理」といった意味があるんです。

お葬式の際、故人が仏の道に入れるように僧侶が法語を与えることを「引導を渡す」と言います。僧侶は法語を唱えた後に「諦聴たいちょう諦聴たいちょう」と言います。これは、今から“向こう岸”に渡るあなたに大切な言葉を贈りますので、「“よく”聞いてください」という意味になります。同じような言葉に「諦観」があります。これは「“よく”観なさい」という意味。つまり、物事を詳らかにして真理を見極めなさいという教えになります。