女流作家が認められたのは近代に入ってから
――「書く女」を題材に小説を執筆した理由は?
以前、1960年代に出版社で出会った3人の女性を主人公に、雑誌文化のはしりの頃を背景にした『トリニティ』という作品を書いたのですが、それよりもっと前の“ものを書く女”について書きたい思いがありました。雑誌はわりと新しいメディアなので女性が参入しやすかったと思うのですが、昔の文壇となると、もっと難しかったのではと思います。
「女流作家」という言葉が生まれたのも近代の話で、それまでは「作家ですらない」と見なされていたのではないかと。今でも、ものを書く女が目立つと叩かれるという点は変わっていないし、「昔はこうだったよね」とまだ笑えません。過去のことにはできないと思い、新作のテーマにしました。
才能のある男を支えるという生き方
題材について編集者さんといろいろ話をしている時、(詩人の)中原中也を捨てて(批評家の)小林秀雄に走った長谷川泰子という女性がいたという話を聞きました。実際の泰子は、それほどものを書いていたわけではないのですが、中也の同人誌に詩を寄せていたことがあり、「書きたいという気持ちがあった人なんだろうな」と想像したのです。
昔は、名だたる作家さんたちの影に、それを支えてきた女たちがいた。才能のある男を支えるしか女の生き方がなかったのだと思います。本当は自分が書きたいのに、その気持ちを抑えて、書いている男を支えるという図式がいろんな作家のまわりであったのではないでしょうか。
たぶん、今もそうだと思うんです。大活躍している作家さんの陰には、家事や日常生活を支える女性がいる。それも1つの生き方として、否定する気持ちはまったくありません。
とはいえ、作家さんの周りにいる女性とか、バンドマンのまわりにいる女性を見ると、「私のことを書いてよ」「私の歌を作ってよ」という女性も結構います。「自分で書いた方がいいんじゃない?」と思うけど、そこは今も昔もあんまり変わらない気がしますね。何者かになりたいけれど、自分の力を使ってではなく、誰かに書いてほしいという。そういう女性も、今も昔も一定数いるなと感じます。