比叡山で気付いた思い

厳しい修行の中で思考がどんどんクリアになっていきます。そこで、「今私が抱えている問題の中で、一番大きなものは何だろう?」と考えた時、それは父親との確執だと思い至ったんです。

修行しはじめの数日は、「母が残ってくれていたら」「私に押し付けてひとりで逝ってしまうなんて」という気持ちもありました。しかし、修行が終わる頃には、「もし父が先に亡くなっていたら、私は、父との関係を修復できないままで、後悔の人生を歩むことになっただろう」という心境に変わっていました。だから、仏様は父を残されたのでしょうね。

父と2人きり、コロナ禍のつらい生活

行院を終えた私は、改めて父と一緒に暮らすことにしたんです。

そのうち新型コロナウイルスが猛威を振るうようになり、外出もままなりませんから、1日中家で2人きりの日が続きます。それが本当につらくて、ある時、母の仏壇に手を合わせて、「もうやってられない」と文句を言ったんです。すると翌日、父が庭の何もないところで転んでしまい、普段飲んでいた持病の薬のせいもあって、出血が止まらなくなってしまいました。すぐに入院、そのまま施設に入ることになったんです。

正直にいうと、「もうつらい思いをしないで済む」という想いもありました。その一方で、「まだ元気な父を施設に入れて申し訳ないな」「他にも何か私にできることはあったんじゃないか」と相反する思いもありました。そこでまた、父との関係性を見つめ直したんです。

感謝を求めないことで気持ちが楽に

比叡山で学んだ四摂法ししょうぼう(人との関わり方を説いた仏教の教えのひとつ)の中に、見返りを求めず相手のためになる行いをする「利行りぎょう」という言葉があります。私は父に対し、「おいしかったよ」「ありがとうね」という言葉のご褒美を求めて、お刺身をキレイに盛り付けようとか、もう一品つけてあげようと考えていたんですね。「こっちの気持ちを押し付けてはいけないんだ」と思ってから、少し気持ちが楽になりました。

この世は諸行無常です。どんなに大切な命でも、いつかは消えてしまう。そんな中で出会ったのは何かのご縁なわけですし、親子だって縁です。そう考えると、目の前のかけがえのない存在に集中しようという気持ちが生まれてきます。私も、「父に対して優しくなかったな」「厳しい面だけをクローズアップしていたな」と反省することしきりです。

ある時、「なんで私ばかりに厳しかったの?」と聞いてみたんです。すると「一人でもしっかりと生きていけるように」と、言葉少なに答えてくれました。