カネボウがM&Aの推進役に

日本におけるM&Aは1900年ごろ、紡績業から始まりました。紡績業とは各種繊維から糸をつむぐ産業のこと。当時の日本の中心産業でしたが、中国やインドの台頭で、輸出が伸び悩んでいました。

しかし対抗しようにも、紡績業者は地方の中小企業が多く、なかなか競争力がつかない。そこで紡績大手の鐘淵紡績かねがふちぼうせき(=後の“カネボウ”)が、九州地方の紡績会社を皮切りに次々とM&Aを進め、それまで数百社あった日本の紡績企業は、昭和初期には6社にまで集約されました。それとともに日本の紡績業は国際競争力を高め、ついに1936年には、イギリスを抜いて世界一位のシェアを誇るまでになりました。そして、その立役者となったカネボウは、戦前一時期ではありますが、日本最大の企業にまで上り詰めたのです。

次にM&Aの波が押し寄せたのは、電力会社です。現代からは想像もつきませんが、実は昭和初期、日本には何と850社もの電力会社があったのです。しかし「品質に違いがない」電力という商品の特性から、発電所が乱立したことで、電力は過剰供給され「激しい安売り競争」を引き起こしてしまいました。

この消耗戦は、経営者にとって厳しいものです。そこで必然的な流れとして、電力会社の統合が始まりました。M&Aはどんどん加速し、戦前は最終的に東京電燈・東邦電力・大同電力・宇治川電気・日本電力のいわゆる「5大電力会社」に集約されました。このときのM&A合戦は、かなり激しく、5大電力会社の中にはM&A対策に特化した証券部門までつくった会社もあったそうです。

工業用ミシン紡績糸が並ぶ
写真=iStock.com/songqiuju
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その後も新興財閥によるM&A、官営工場がらみのM&A、製紙会社やビール市場でのM&Aなどが進み、当初、弱い企業の競争力強化のためだった日本のM&Aは、次第に巨大企業を続々と生み出す方向に変わっていきました。

この流れは、第2次世界大戦中は「国策に協力する企業シェアの拡大」という形で、政府の後押しを得て、さらに加速していくことになります。

しかし、その流れにも、やがて終止符が打たれます。終戦です。GHQの指令により財閥解体が進められ、18の財閥が解体されただけでなく、巨大企業の多くは会社分割や事業譲渡を命じられました。こうして世界をリードした日本のM&Aブームは終わりを告げ、そんな過去を知らない私たちは、今日M&Aを「外資から迫りくる脅威」という目で見ているのです。おもしろいですね。