納得のいく作品をつくるために自分の目で見たもの耳で聞いたものを頼りに判断したい
私がリアリティーを大事にする理由
映像を使って伝えたいことを表現する──「映像言語」という言葉があります。私が映画をつくり続けるのは、それが人に新たな気付きをもたらし、前向きな気持ちにする確かな力を持っていると思うから。優れた映像作品は、国境や人種の壁も容易に越えていきます。
ではどうすれば、その映像言語の質を高められるか。鍵の一つは、やはりリアリティーだと私は思っています。真に迫った映像は人の心に深く届き、それを揺さぶることができるのです。
河瀨組では撮影前、俳優に“役積み”という作業をしてもらいます。夫婦役の2人には結婚前の気持ちでデートをしてもらい、中学生役なら劇中の家族と一緒に暮らして地元の中学校に通ってもらう。目的は、それぞれが登場人物の人生を生きるため。これに尽きます。俳優というのは、「泣いて」と言えばその場で泣ける人たちです。ただ、言われて流した涙と自然とこぼれたそれとでは、やはり見る人に伝わるものが違うのです。
俳優ばかりでなく、私自身も撮影には最大限の準備をして臨みます。樹木希林さんがハンセン病の元患者を演じた『あん』では、企画段階から何度も療養所を訪れました。初めて施設に足を踏み入れ、元患者さんと対面するときは、自分の中にいったいどんな感情が生まれるのか。自分がどんな表情になるのか。とても緊張したのを覚えています。ただそれは、希林さんが演じた「徳江」と共演者が作中で出会ったときに抱く感情であり、表情。まず私が体験すべきものなんです。
実際に元患者さんにお話を聞くと、皆さん長い隔離生活を経験されているにもかかわらず、とても明るく、前向きなことに驚かされました。一方で、「一番悲しいのは、忘れられること。自分という存在をなかったものにされることが一番辛い」。そんな言葉が強く印象に残っています。
もちろん勉強のために、たくさんの書籍や資料にも目を通しますが、やはり直接会わないと聞くことができない声がある。加工されていない生の声、秘めてきた思いを受け止め、それを作品に落とし込むことこそが映画監督の役割だと思っています。
「見えないもの」でも撮り手が感じて撮ることで伝わる
現場に行くという意味では、撮影場所を決めるロケハンも大事な作業です。そこで優先するのも、リアリティー。実は映画を撮り始めた頃は、きれいな、見栄えのいい場所を探して撮影することもありました。それが変わったのは、『萌の朱雀』からです。
主人公らが橋を渡るシーン。当初私が考えていたのは、地元で一番の立派なつり橋での撮影でした。しかし撮影監督の「作中の家族が暮らしている家から離れ過ぎている。映画の中にも地図がある」との言葉に、ハッとしました。確かに映像的には美しいかもしれないが、それは登場人物の生活に根ざしていない。思い直して、家に程近いつり橋を使うことに決めました。
今も助監督などが集めてきた情報だけで、撮影場所を決めることはありません。海中のシーンがあれば、ダイバーと一緒に潜ってサンゴ礁の位置まで確認します。やはり最後は、自分の目で見たもの、耳で聞いたものを頼りに判断したい。納得のいく作品をつくるために、それは欠かせません。
本物を追い求めれば相応の時間がかかる
昨年行われた東京大会の公式記録映画。この制作でも、できる限り選手たちの練習の場に出向き、遠征にも同行しました。コロナ禍で思うように動けない場面もありましたが、ドキュメンタリーでは取材対象である「人」との信頼関係が作品の出来を左右する。いきなりカメラを向けても、本来の姿、自然な言動を捉えることはできません。また今回の取材では、医療従事者やボランティアの話も多く聞いています。私と15人ほどのディレクターが各現場を飛び回って撮影した膨大な映像を基に、これまでにない特別な大会の“光と影”を描き出したいと考えています。
リアリティーを追求するために何が必要か──。そもそも「本物」とは、時間を重ね、人の思いをつなぐことによって醸されるものであり、それを追い求めることも相応の時間がかかるというのが私の考えです。
私の地元の奈良には、1000年以上前から受け継がれている伝統行事や歴史的建造物が存在します。まさにそこには、人の心を豊かにする“本物”が宿っている。ぜひ私も、時を超えて、見た人の生きる糧となるような作品をつくっていけたらと思います。