オムロン ヘルスケアでは患者が家庭で測定したバイタルデータを医師と共有し、医師が患者の状態を詳しくモニタリングすることで、脳卒中や心筋梗塞などの早期発見・治療につなげるため、2019年より「遠隔診療サービス」のグローバル展開を進めている。そこで今回、デジタル技術を活用したビジネス動向に精通し、日本の政策にも詳しい岸博幸・慶應義塾大学大学院教授を迎えて、同社の技術開発責任者である開発統轄本部 技術開発統轄部長の濵口剛宏氏と、遠隔診療サービスをめぐる状況について対話した。オムロン ヘルスケアの新たな取り組みから見えてきたこれからの遠隔診療サービスの可能性について語り合った内容を紹介する。

血圧を正しくコントロールするにはどうすればいいか

――家庭で使用する血圧計や健康管理アプリなど、健康機器やサービスを提供しているオムロン ヘルスケアが、「遠隔診療サービス」という新たな事業を始めました。家庭で測定したバイタルデータを医師と患者が共有し、診察・治療に活用できるサービスだそうですが、この事業を始めた理由と背景について教えてください。

【濵口】弊社は1973年に血圧計1号機を世に送り出して以来、血圧計をメインに事業を展開してきました。血圧は脳卒中や心筋梗塞といった「脳・心血管疾患」の発症と大きく関係していることから、私たちはこのような重篤な疾患をゼロにしたいとの思いを持って血圧計を開発してきました。

おかげさまで2021年秋には、累計販売台数3億台を達成し、現在では世界110以上の国と地域で弊社の血圧計が使われています。そういう意味では、家庭における血圧測定の普及に少なからず貢献できたのかなという思いを持っています。

しかしながら世界の中でも血圧測定の習慣が広がっている日本でも、高血圧を治療中の患者様の半数近くが正しく血圧をコントロールできていないというのが実情です。

【岸】家庭で血圧を測っていても、血圧を適正にコントロールすることが難しいと?

【濵口】そうなんです。弊社では2015年に「ゼロイベント」、いわゆる「脳・心血管疾患発症ゼロ」を目指すことを循環器事業の事業ビジョンに掲げていますが、「脳・心血管疾患」の発症者数は思うように減っていません。つまり血圧計を作って供給するだけでは、「ゼロイベント」は達成できないということがわかってきたわけです。

では血圧を正しくコントロールし、「脳・心血管疾患」の発症をゼロにするにはどうすればいいか。血圧は一日を通して常に変動しています。定期的な通院時や健康診断時の血圧値だけで患者様の状態を詳しく把握することは困難です。そこで、私たちは、患者様が毎日測定する血圧値(バイタルデータ)を、医師がリアルタイムでモニタリングできればいいのではと考えました。そこで患者様と医師とをつなぐ「遠隔診療サービス」を開始したというのが経緯です。

岸博幸(きし・ひろゆき)
慶應義塾大学大学院教授
1962年生まれ。一橋大学経済学部卒業、コロンビア大学ビジネススクール卒業。1986年、通商産業省(現経済産業省)入省。産業政策、IT政策、通商政策、エネルギー政策などを担当。経済財政政策担当大臣、総務大臣などの政務秘書官を歴任し、不良債権処理、郵政民営化などの構造改革を主導。エイベックス取締役、ポリシーウォッチ・ジャパン取締役などを兼任。

世界の死因1位「虚血性心疾患」、2位「脳卒中」 両方に起因するのが高血圧

【岸】基本的なことをうかがいますが、血圧ってそれほど大事なんでしょうか。

【濵口】WHO(世界保健機関)などが公表する世界の死因ランキング(※)で第1位は虚血性心疾患、第2位は脳卒中なのですが、いずれも高血圧が大きな要因の一つです。つまり高血圧が人間の死因のトップとも言えるんです。

※World Health Organization“The top 10 causes of death”
https://www.who.int/news-room/fact-sheets/detail/the-top-10-causes-of-death

【岸】えっ、そうなんですか。

【濵口】だからこそ今、高血圧が世界中で注視されている健康課題になっているんです。

【岸】そこで血圧計のトップブランドであるオムロン ヘルスケアさんが遠隔診療サービスに乗り出したのですね。血圧計を見せてもらいましたが、装着してボタンを押すだけで測定ができて、なおかつそのデータが医師と共有されるわけですね。

【濵口】はい。例えば米国では測定結果が出た瞬間、そのデータが病院の電子カルテと連携し、データが共有される仕組みです。

【岸】そのデータを医師が患者の診察時に生かすと。

【濵口】その通りです。

【岸】この遠隔診療サービスには具体的にどんなメリットがあるのでしょうか。

【濵口】高血圧の患者様は、およそ1カ月から3カ月に1回のペースで通院されています。しかしながら、通院時に、患者様が家で測ったデータを血圧手帳やアプリなどに記録して持ってきても、医師は限られた時間内で全てを把握することは難しいのが現状です。手書きの数字やグラフを見て、血圧の平均値などを分析するのは時間を要するからです。

また、薬の効果を把握するために服薬後の血圧値の変化を見なければいけないので、診察後の血圧値を見ることも重要です。

こうしたことから、遠隔診療サービスがあれば、患者様の血圧値の状態を常にモニタリングできますし、前述したように服薬後の経過観察が重要なので、処方が合わなかった場合でもすぐに気づいて変更できます。それによって、より適正な血圧コントロールが可能になるのです。

【岸】なるほど。ちなみにこの遠隔診療サービスは、病院が導入して患者に提供する形なのでしょうか。

【濵口】ご存じの通り、その国の保険制度や医療制度によって異なるので一概には言えませんが、たとえば昨年9月に私たちが米国でスタートした「バイタルサイト(VitalSight™)」という遠隔患者モニタリングシステムでは導入する病院と契約します。

【岸】米国ではすでに医療従事者が遠隔で患者の血圧データを管理して、医療活動に利用しているのですね。

【濵口】はい。米国のほかにもヨーロッパ、シンガポールでも始めています。

濵口剛宏(はまぐち・たけひろ)
オムロン ヘルスケア株式会社
開発統轄本部 技術開発統轄部 統轄部長
1996年オムロン入社、商品開発部でネブライザなど様々な医療機器開発を担当し、2009年に世界初の内臓脂肪測定装置を開発。その後、ウェアラブル血圧計や心電計付き血圧計などの開発を経て、2020年度より現職。新たな生体センシングデバイス、AIを活用したアルゴリズムなど技術開発を統轄。

遠隔診療サービスで高齢者の孤独死も減らせる

――岸先生は日本の遠隔診療に関してどのようなご意見をお持ちですか。

【岸】政策的に言うと、私は遠隔診療サービスがもっと普及してほしいんです。遠隔診療サービスが実現すれば、医療分野でこういう価値が提供できるとか、こういった貢献ができるという議論をするべきなのですが、そうした話題がなかなか聞こえてきません。

【濵口】私たちも、それを活用した、より良い医療を多くの患者様が享受できるような社会になっていくことを願っています。

【岸】私は地方の自治体にも関わっていますので、地方の高齢者にこそ遠隔診療サービスを提供してもらいたいと思っているんです。地方に行けば行くほど独居老人の数がすごい。しかもそういう場所は病院まで遠いんですよ。

しかし、地方の高齢者は年齢的にも自分で車が運転できない上に、地元の公共バスもどんどん削減されています。特に雪が多い地方では冬になると外出しづらく、1日テレビを見ているしかないんですね。定期的に診療を受けることができないまま、症状が悪化し最終的には孤独死してしまう人が本当に増えています。

地元の自治体の人が見回りをしていますが、亡くなって数日経って発見されるというケースが結構ある。そういう地域に「遠隔診療サービス」が広がれば、孤独死を防げることもある程度はできるわけですよね。

【濵口】おっしゃる通りです。家庭で測定されたバイタルデータを医師が常にモニタリングできますし、血圧に異常があればアラートが上がります。それを見て医師から連絡をとり、診察を促したり、処方を変えたりすることができます。

独居で生活されている高齢者の方にとっては、常に自分の健康状態を医師に診てもらっているというだけでもかなりの安心感がありますし、それは医師も同じだろうと思います。

【岸】本来、こういう問題を解決するのも、遠隔診療サービスの役割だと私は思うんです。地方の医師も、これがあれば地域の高齢者をしっかりケアできるわけだから、積極的に活用してほしいところです。

――このサービスは医療費の削減にも繋がっているそうですね。

【濵口】詳細の言及は控えさせていただきますが、米国で「バイタルサイト」を利用していただいている病院の結果から、1人当たりの患者様の医療費の支出が軽減できるという結果が出ています。というのも血圧の変化で予兆をつかんで早期にケアできるようになったので、重篤になる患者数が減りました。その結果、高額な救急搬送の件数も減り、手術費や入院費、治療費も減少しています。

【岸】そういうデータがすでにあるんですか。

【濵口】はい。私たちは医療費を削減するためにやっているわけではありませんが、そういう結果が出ています。

【岸】もちろん一番は患者であり、一般の方のためですよね。しかし医療財政の観点でもメリットがあるということは重要です。

AI技術の活用によって疾患発症が予測可能に

――今医療分野はAIやデジタル技術の活用が加速していますが、オムロン ヘルスケアでも遠隔診療サービスにAIを活用するための研究も始めましたよね。

【濵口】2021年から京都大学の医療AI専門家である奥野恭史教授と「健康医療AI講座」という共同研究講座を設置し、AIを活用して、脳・心血管疾患の予兆を検知する取り組みをスタートしました。私たちが強みとするバイタルセンシングの機器と、家庭で収集された時系列のバイタルデータ、そこに京都大学のAI解析技術を融合して、診断や治療を支援するアルゴリズムを作るという取り組みです。これでゼロイベントを実現したいと力を入れているところです。

【岸】それが実現すれば突然倒れる前に、ある程度の予測ができるということですね。

【濵口】はい。今後血圧以外のバイタルデータも収集する方針ですが、そうすると今よりはるかに精度が高まります。たとえば1カ月程度のスパンで危険を知らせることが将来的には可能になります。

【岸】「あなたは1カ月以内に脳梗塞になる可能性がありますよ」という感じ?

【濵口】そうなんです。そのデータをもとに病院で診察していただくことができます。

【岸】個人的な話ですが、最近忙しくて何年も人間ドックに行けていないんですよ。でもこれなら高齢者に限らず、定期的に検診に行けない人が、日々のバイタルデータから何かの兆候をつかんでもらうこともできそうですね。

【濵口】おっしゃる通りです。それだけでなく、たとえばイギリスで運営している「ハイパーテンションプラス(Hypertension Plus)」という遠隔診療サービスでは、家庭での血圧データから、最適な薬の処方も医師に提案するところまで来ています。

【岸】AIが医師のサポートをしてくれると、いわゆる医療の診断ミスも低減できるし、医師の負担も減りますね。

【濵口】すでにイギリスでは医師の方々の負荷低減に貢献できています。というのも患者様が来院する前に医師がデータを見られるので、状態が安定している患者様の診察回数は減らせるんです。限られた時間の中で今まで難しかったことも対応可能になり、医師の働き方が改善されています。

【岸】今回お話をうかがって、この遠隔診療サービスの展開を日本でも早く実現してほしいと思いました。新型コロナウイルスの感染拡大で特例的・時限的措置の規制緩和が行われてから通信業者が盛り上がっていますが、遠隔診療サービスで最も大事なことはいかに正確なデータをとって、正確に医師と共有できるかですよね。そうであるなら、オムロン ヘルスケアさんのように医療を専門としている企業のほうがふさわしいのではないでしょうか。

【濵口】特にAIを活用するにはデータの精度が重要ですが、弊社では病院での測定にも引けを取らない、家庭で誰もが正しい測定ができるよう長年研究を重ねてきました。

【岸】その意味でも、オムロン ヘルスケアさんのように、この分野で最も知見のある企業が遠隔診療サービスに力を入れてくださるというのは、日本全体にとっても非常にありがたいことです。海外での実績をもとに日本においても遠隔診療サービスをリードしていってもらいたいと心から願っています。