デンマークで国民から絶大な支持を得ているマルグレーテ2世は、デンマーク初の女王です。1953年に、男子がいない場合には女子継承が認められたのを受けての即位です。さらに、2009年の法改正では男女の区別なく長子が王位を継承できることになりました。男子継承しか認められていなかったデンマーク王室が、なぜ長子継承制へと至ったのか。歴史的背景をみていきます。
※写真はイメージです(写真=iStock.com/scanrail)

衣装は自分でデザインする

現在、ヨーロッパで、王室が残っている国は7カ国あります。そのうち、女王が在位している国はエリザベス2世のイギリスと、マルグレーテ2世のデンマークです。

マルグレーテ2世はデンマーク史上初の女王です。中世の時代に活躍した有名なマルグレーテ1世は実質的な女王として扱われますが(マルグレーテ1世の夫はノルウェー王ホーコン6世で、早死にしています)、デンマークでは女性の王位継承は認められておらず、法的には摂政の立場でした。女傑マルグレーテ1世はノルウェーやスウェーデンを支配し、1397年、北欧3国を同君連合化(カルマル同盟)したことで知られています。

マルグレーテ2世は国民から絶大な支持を得ています。身長が180cmもあり、気品にあふれた振る舞いで、若いときはヨーロッパで最も美しい王族との評判でした。英語、フランス語、スウェーデン語、ドイツ語を操り、語学堪能なことでも知られています。コペンハーゲン大学で哲学、ケンブリッジ大学で歴史学、オーフス大学で政治学、ソルボンヌ大学で法律学を学んだことがあり、まさに才色兼備の女王なのです。

彼女はファッションでも注目を集めていて、派手な衣装を知的に着こなしています。来ている衣装はなんと、自らがデザインしたものが多いとのことです。大晦日にはテレビ演説し、国民の多くがこれを視聴するというのがデンマークの恒例行事になっています。

1967年にフランスの伯爵家のラボルド・ド・モンペザ伯ヘンリック(フランス読みでアンリ)と結婚し、フレデリック王太子とヨアキム王子の2子がいます。ヘンリックは自分の息子よりも下位の地位に置かれたことに傷つき、一時的に故郷のフランスに帰ってしまったことがありました。2018年逝去したヘンリックは「妻は普通の家庭のように、夫に対し敬意を払うことがない」と周囲に不満をもらしていたそうです。妻が女王であれば、一筋縄ではいかないでしょう。

国民の8割近くが女子の王位継承に賛成

デンマークの王位継承は男子にのみ認められていましたが、1953年、憲法と王位継承法の改定で、男子の継承者がいない場合に限り、女子にも継承権が認められるようになりました。このとき、法改正のための国民投票が行われ、賛成票が78.8%、反対票が21.2%という結果でした。

当時のデンマーク王フレゼリク9世には、マルグレーテをはじめ3人の娘がいましたが、男子がなかったため、マルグレーテが王位継承者になりました。そして、1972年、父王の死去に伴い、デンマーク初の女王となったのです。

1953年の法改正では、女王の子の王位継承権を否定しなかったため、実質的に女王とともに、その子たる女系王が容認されたことになります。

デンマーク王室のこの歴史的な転換には、背景があります。1953年の法改正以前の王位継承者は男系男子継承の原則に基づき、フレゼリク9世の弟のクヌードゥでした。マルグレーテ2世にとっては叔父にあたる人物です。

かつて、クヌードゥはヒトラーに傾倒しており、ナチス・ドイツがデンマークを占領したとき、クヌードゥはナチスに積極的に加担しました。クヌードゥはナチスの諜報機関に迎え入れられ、さまざまな諜報活動に従事しました。こうした経緯があり、デンマーク国民は戦後になっても、クヌードゥは王位継承者にはふさわしくないと考えていました。

世論に動かされる形で、フレゼリク9世や議会がクヌードゥの排斥に動き、1953年の王位継承法の改定となったのです。デンマークは936年に即位したゴーム老王以来、1000年続いたヨーロッパ最古の王国の一つです。王朝は何度も断絶していますが、王制自体は続き、その間、男系男子の王位継承の伝統が守られてきましたが、デンマーク国民はそのような伝統を守ることよりも、ナチス主義者の王弟クヌードゥが王位を継承することの方が許容できないと考えたのです。このことは1953年の国民投票で、78.8%という圧倒的多数が法改正を支持したことからも明らかです。