方子妃の夫・李垠とはどのような人だったのか?

1920年、戦前の11宮家の一つであった梨本宮の守正王の第1王女・方子妃は韓国の李氏王族の李垠(りぎん、イ・ウン)殿下と結婚します。方子妃は真面目で気品のある女性で、昭和天皇の妃候補の一人とされていました。そんな方子妃が自分の結婚相手を知らされたとき、「なぜ、自分が異国の王族に嫁がなければならないの」と言って、泣き崩れました。

方子妃の相手の李垠殿下は幼少期から日本で教育を受け、学習院や陸軍中央幼年学校を経て、陸軍士官学校を卒業します。日本陸軍に所属し、軍人として有能であったため、順調に昇進しました。1936年の二・二六事件の際、殿下は歩兵連隊長として、大隊を率い、反乱軍の鎮圧にあたっています。

日清戦争で清王朝からの独立が認められた朝鮮は1897年、大韓帝国となります。帝国の誕生により、李氏王族は皇族となりました。しかし、国民は失政を重ねてきた李氏の統治に愛想をつかしていました。実際に、大韓帝国になってからも、政治は機能不全の状態が続き、国民の生活は苦しいままでした。

そのため、日本の統治を望む声が半島の人々の間でわき起こり、大韓帝国側から要請される形で、1910年、日韓併合条約を結び、文字通り、大韓帝国を日本の一部として「併合」し、日本が合法的に統治することになったのです。当時の朝鮮は「日本の一部」であり、法的にも、日本の連邦を構成していた地域の一つという位置付けでした。

併合により、大韓帝国が消滅したため、韓国の皇族は皇族としての身分を失い、代わりに、大日本帝国の皇族に準じる王公族の身分を与えられました。当時の皇帝・純宗は李王となります。純宗は李垠殿下の異母兄にあたります。純宗は1926年、心不全で死去し、李王の地位は李垠殿下に引き継がれました。

仲睦まじかった李垠殿下夫妻

韓国では、「李垠殿下は大日本帝国の人質だった」と教えられています。人質に、日本皇族の女性が嫁ぐことはあり得ませんし、日本が韓国に対して、人質をとらなければならなかった必要性などもなかったのです。

李垠殿下は幼くして、日本に留学しました。それを「強制連行した」と韓国では教えられています。学校さえまともになかった当時の韓国を哀れみ、日本は李垠殿下ら韓国王族に教育の場を提供しました。彼らが高度な教育を受けて、世界の情勢を理解できるようになり、日本人の同胞として育っていってくれることを期待しました。当時の大正天皇の皇后は幼少の李垠を可愛がり、大切に養育しました。「強制連行」などという事実はまったくありません。

ところで、韓国併合後、日本は半島各地において、学校建設と公教育の制度化にも力を注いでいます。

李垠殿下は日本の文化に造詣が深く、日本の礼儀作法なども身につけており、真面目で寡黙でした。当初、結婚を嘆いていた方子妃もそんな殿下を心から慕うようになります。李垠夫妻は旧李王家邸(1930年建設)に居住しました。この邸は2011年に閉館した赤坂プリンスホテルの旧館で、現在、「東京ガーデンテラス紀尾井町・赤坂プリンスクラシックハウス」として残っています。夫婦はここで、仲睦まじく暮らし、当時の日韓関係の良好さを象徴する存在として注目を集めました。

李垠殿下夫妻は2男をもうけました。1922年、夫妻は生後8カ月の晋(しん)を連れて、朝鮮を訪問し、純宗に謁見しました。その後、しばらくして、晋は下痢・嘔吐をし、ソウルで急逝します。急性消化不良と診断されていますが、日本皇族との結婚に反対した民族主義者による毒殺とする説もあります。夫妻は悲しみのどん底に突き落とされます。

第2子の玖(きゅう)は学習院高等科卒業後、アメリカのマサチューセッツ工科大学に留学して建築学を学び、1958年、ヨーロッパ系アメリカ人女性と結婚し、アメリカに帰化しました。その後、両親の韓国帰還に伴い、韓国で事業をしますが、失敗しました。玖は上記の東京旧李王家邸で2005年、死去しました。玖には、子がなかったため、李垠殿下の直系子孫は断絶しました。