オークション市場から富裕層のニーズを読み解く

ドミニク・ベルナス氏。1957年生まれ。時計宝飾店、ブヘラで高級消費財業界でのキャリアをスタート。その後ブルガリなどを経て、90年にヴァシュロン・コンスタンタンのジュネーブ店のマネージャーに就任。95年からパテック フィリップのジュネーブ店の責任者、2002年からはオークションハウス、アンティコルムの副チェアマンを務める。06年にヴァシュロン・コンスタンタン入社、アトリエ・キャビノティエの責任者に就く。10年より同社のリテールディレクターも兼務。

「なぜスペシャルオーダーの時計をつくるかですか? それは顧客のニーズがあるからです」

そう話すベルナス氏は、現在ヴァシュロン・コンスタンタンでアトリエ・キャビノティエの責任者とリテールディレクターを兼務する人物だ。2006年、世界的なオークションハウスであるアンティコルムに副チェアマンとして勤務していた彼のもとに、1通のオファーが届く。ヴァシュロン・コンスタンタンCEOのホアン-カルロス・トレス氏から、スペシャルオーダーの時計をつくる責任者にならないか、というものだった。

トレス氏はアトリエ・キャビノティエを立ち上げるにあたり、時計ビジネスの経験、時計に関する知識、そして顧客との信頼関係のすべてを備えたベルナス氏に白羽の矢を立てたのだった。ベルナス氏はこのオファーを快諾した。

「私が引き受けた理由は大きく3つあります。まずはトレスCEOの熱意。ビジネスとして本気で取り組みたいという意欲が伝わってきた。2つ目は、ヴァシュロンにはスペシャルオーダーの時計をつくる技術があると確信していたから。それ以前からヴァシュロンの技術力はスイスでもトップレベルだと見ていました。複雑時計を開発しているマニュファクチュールに自分も貢献したかったのです」

そして3つ目の理由は、富裕層のニーズを熟知したベルナス氏らしい分析によるものだ。

「何より大きかったのは、ビジネスとしての興味です。21世紀に入り高級機械式時計が再び日の目を見ると、時計産業は近代化され大量生産の時代に入りました。そうした流れの中で将来的に価値が残るもの、例えばオークションで値が落ちにくいものといえば、スペシャルオーダーの1点もの。富裕層の多くは多少高額であろうと資産的価値があるものを求めており、そうした価値観は時代が進むに連れてより高まると予測していたのです」

そうしてアトリエ・キャビノティエの責任者となったベルナス氏の最初のミッションは、「スペシャルオーダーの注文を取ってくること」。それまでに信頼関係を築いていた顧客に当たると、オーダーは意外にも早く取れた。1点ものへのニーズの高まりが予測から確信に変わった。

だが、そのオーダーの内容は何と「21世紀で最も複雑な時計」。最初にして最難関レベルの依頼だった。ヴァシュロン・コンスタンタンの中でも熟練の時計師3名が8年の歳月を要して完成させたのが、昨秋お披露目された懐中時計「リファレンス 57260」だったのである。