「もう、佐伯には会えない」

千代は、着飾った理由を「何と言う可愛い、きれいな娘かと思って貰いたい一心」と書いている。そう思ってほしかった相手は、校長ではなく、会えなくなる男だった。

ところが、千代は生徒の前へ出ることも許されず、下の小使室(用務員室)で待つよう言われた。やがて運動場から、校長の訓話が聞こえる。宇野先生は東京の学校へ進学することになった、今日は少し具合が悪く、お別れには出てこられない――。校長の説明は、実際の退職理由とは違っていた。

千代は、小使室で泣いた。その涙の理由を、こう書いている。

「もう、佐伯には会えない、と思うと、私は涙が出て来た。」

校長は子どもたちに「進学する先生」の話をしていた。その声を聞いていた本人は、もう会えなくなる男のことを考えていた。

文章は、こう続く。

「このままの姿をして、あの竹藪のそばにある佐伯の家まで駆け出して行きたい、とどんなに思ったことか。」

だが、千代は駆け出さなかった。その日のうちに、学校のそばに借りていた家を引き上げた。最後の日に着た一張羅は、見せたかった相手に見てもらえなかった。

参考文献
宇野千代『生きて行く私』(角川文庫)
刑部芳則『宇野千代 昭和モダニズムの伝道者』(NHK出版新書)。三吉勇雄の回想、恋文の使いについての千代の言葉、化粧の手順と費用、着物の費用、当時の装いについての千代の回想、「学校沿革誌」の記載は、刑部の評伝を通じて参照している。

栗下 直也(くりした・なおや)
ライター

1980年東京都生まれ。2005年、横浜国立大学大学院博士前期課程修了。専門紙記者を経て、22年に独立。おもな著書に『人生で大切なことは泥酔に学んだ』(左右社)がある。