学校を辞める日に宇野千代が「晴れ着」だったワケ
着物に袴。いまなら卒業式で見かける姿だが、当時の女教員には仕事着だった。着物に袴は珍しくないが、この日の宇野千代は少しだけ違った。髪は日本髪の島田に結い、襟元には牡丹の花の刺繍。着物は、矢羽根の柄が並ぶ矢絣。手持ちでいちばんの晴れ着だった。
千代の姿を見て、校長は驚いた。その格好で、生徒の前へ出るつもりなのか――。
朝ドラ『ブラッサム』第3週で、小学校に勤める珠(演・石橋静河)は、同僚との恋愛がうわさになり、学校を辞めさせられる。終業式の日に登校すると、教室には別の教師がいて、教頭に追い出されてしまう。モデルとなった作家・宇野千代も、大正5(1916)年、恋愛が問題となって教壇を離れた。当時18歳だった。その最後の日の装いを、自伝に詳しく書き残している。
目立たない格好で、そっと去ることもできただろう。だが、千代が選んだのは、一張羅だった。なぜ、もう働けなくなる学校へ、そこまで着飾って行ったのか。
たった2年で終わった教員生活
千代が岩国高等女学校を卒業し、師範学校を出ていない代用教員として、川下尋常高等小学校に勤めはじめたのは、大正3(1914)年4月。評伝『宇野千代 昭和モダニズムの伝道者』によれば、採用は4月4日。学校の真ん前で文房具店を営む祖母の口利きだった。月給は8円である。
教室での仕事を、千代は自伝の中で楽しそうに振り返っている。やりがいはあったのだろう。
同じ学年を能力別に分けた際、新米の千代が任されたのは、当時「劣等生組」と呼ばれた子どもたちだった。
最初は手のつけられない子たちに見えた。ところが、簡単な問題を当てると、ひょいと答える子がいる。昨日できなかったことが、今日はできる。褒めると、子どもの顔に歓喜が走った。褒めるのが上手になるにつれ、教室は活気づき、優等生組にも負けない子が出てきたという。
子どもにものを教える仕事が、千代は好きだった。その仕事を、2年で失うことになる。
ウサギの足で化粧をした
同じ頃、千代は自分の顔にもひとつ発見をした。
きっかけは教員になった最初の夏休みだった。風呂場の棚にあった母の白粉を、パフ代わりの兎の足で顔にはたき、「剥げちょろけの鏡」をのぞく。そこには「世にも美しい娘の顔」が映っていた。父から色黒をけなされてきた娘には、思いがけない変化だった。
母は喜び、紅をさすのを手伝った。二学期にその顔で登校すると、生徒も同僚も驚いた。化粧をしてはいけないと咎める者はいなかったという。
化粧の手順は、なかなか忙しい。顔を洗い、クリームを塗り、練白粉をのばし、粉白粉をはたき、口紅と頰紅をつける。眉墨の代わりには、少し燃やしたマッチ棒を使った。これで約45分。化粧代は月給8円のうち、1円50銭から60銭を占めるようになった。
化粧をした千代は、学校の外からも見られるようになった。体操を教えていると、運動場の柵のまわりに人がたかる。行き帰りには、袂に恋文が入っている。だが千代は、そのどれにも答えられなかったという。この顔は兎の足が作った「化け物」だ。白粉が剥げて元の色黒の顔が現れたら、人はどんなにげっそりするか。そう思うと身も縮んだ。
やがて、その顔を見てもらいたい相手が、職員室に現れる。
クラスの生徒に恋文を運ばせる
大正4(1915)年に赴任した玉田精磨である。師範学校を出た正規の教員(訓導)だった。自伝では「佐伯正夫」と書かれているが、ここでは評伝に従って実名を使う。千代は校長から紹介された最初の一瞥で、心を奪われたと回想している。ちなみに「ブラッサム」では、島村辰彦という名で工藤阿須加が演じている。
相手は、同じ学年の優等生組の担任だ。2人は教案を持ち寄り、授業について意見を交わした。彼は、甲組と乙組という能力による呼び分けはやめよう、いまの乙組には十分な力があると言ったという。体操の時間には、一緒に八幡神社まで駆け足で走って行った。
好きな人が、自分の受け持つ子どもたちの力も認めてくれる。自伝には、そんな仕事と恋愛が重なる時間が描かれている。
千代は、切り昆布の煮たのを持って、相手の家へ行った。小さな布を接ぎ合わせて座蒲団を作り、それも運んだ。授業中に手紙を書き、生徒に持って行かせた。
その運び手は級長の三吉勇雄だった。後年のクラス会で、三吉はこう話したという。
「私は先生の恋文を運んだ郵便屋でした」
なぜ彼に頼んだのか。千代の説明は「一番たのみ易かったから」である。頼みやすい相手が、受け持ちの子どもだった。教室と恋愛の境目は、生徒にも越えさせてしまっていた。
処分を受けた宇野千代が残した意外な言葉
恋は、着物にも及んだ。一反4円80銭の銘仙を買って着物に仕立て、裏地をつけると、月給8円はなくなった。母に渡す分は減り、給料は化粧と和服に消えていく。
評伝は、その頃の出で立ちを語る千代の文章も引いている。牡丹の花を刺繍した半襟を襟元に重ね、顔には濃い化粧。袴は穿いていても学校の先生ではなく、「カフェの女給さん」のようだったという。
学校へ行く支度は、働くための支度であると同時に、好きな男に会うための支度でもあった。
同僚たちの間には、生徒を口実にしてあまり仲よくされても困るという声も出たらしい。やがて2人のことは、村中に知られるようになった。
ある日、出勤した千代は、すぐに校長室へ呼ばれた。今学期いっぱいで学校を辞めてもらわなければならない。役所からの命令で、どうにもならないという。
自伝では「諭旨免職」と書かれている。そのとき千代は、罰を受けたのは自分ひとりで、相手には何の咎めもないと思った。
ここからの数行が、意外である。
人々は、自分ひとりが男を誘い込んだと見たのかもしれない。それでもよい。いや、その方がよい。千代はそう書いて、こう続ける。
「この処置によって、男が少しも傷つかなかったのを、私はどんなに喜んだか知れなかった。」
小学校教員時代の「いちばん長い日」
少なくとも自伝で前に出てくるのは、自分だけが罰を受けたことへの抗議ではなく、相手まで罰を受けずに済んだことへの安堵だった。
ただし、学校に残る記録は、このときの千代の認識と一致しない。
評伝が確認した「学校沿革誌」では、千代は大正5年3月31日付の「依願退職」とされている。そして玉田も、同じ日付で坂上村の小学校へ転任していた。ドラマでは島村は変わらず担任を続けるようだが、実際の相手は、何事もなく元の学校に残ったわけではなかったのである。
もちろん、退職と転任は同じ扱いではない。千代が職を失ったことは変わらない。相手も罰を受けたと千代が知るのは、のちのことだ。最後の登校日の千代は、まだ、罰を受けたのは自分ひとりだと思っている。そう信じたまま、その男に見せるために着飾ったのである。
別れの日が来ると、千代は冒頭の姿で学校へ出かけた。着物は、子どものころにもらった、そろいの着物と羽織を継ぎ足して、一枚に仕立て直したものだった。
当時の学校には裁縫の女教員が髪を桃割れという日本髪に結って来ることはあった。日本髪というだけで、奇異に映るわけではないが、その日の千代の姿はどう見ても「免職になって、身を慎ましくしている娘」とは思えなかった。
学校を辞めさせられるのだから、慎ましくしているべきだ。校長が驚いた反応を見せたことは、その期待をうかがわせる。だが千代が考えていたのは、別のことだった。
「もう、佐伯には会えない」
千代は、着飾った理由を「何と言う可愛い、きれいな娘かと思って貰いたい一心」と書いている。そう思ってほしかった相手は、校長ではなく、会えなくなる男だった。
ところが、千代は生徒の前へ出ることも許されず、下の小使室(用務員室)で待つよう言われた。やがて運動場から、校長の訓話が聞こえる。宇野先生は東京の学校へ進学することになった、今日は少し具合が悪く、お別れには出てこられない――。校長の説明は、実際の退職理由とは違っていた。
千代は、小使室で泣いた。その涙の理由を、こう書いている。
「もう、佐伯には会えない、と思うと、私は涙が出て来た。」
校長は子どもたちに「進学する先生」の話をしていた。その声を聞いていた本人は、もう会えなくなる男のことを考えていた。
文章は、こう続く。
「このままの姿をして、あの竹藪のそばにある佐伯の家まで駆け出して行きたい、とどんなに思ったことか。」
だが、千代は駆け出さなかった。その日のうちに、学校のそばに借りていた家を引き上げた。最後の日に着た一張羅は、見せたかった相手に見てもらえなかった。
参考文献
宇野千代『生きて行く私』(角川文庫)
刑部芳則『宇野千代 昭和モダニズムの伝道者』(NHK出版新書)。三吉勇雄の回想、恋文の使いについての千代の言葉、化粧の手順と費用、着物の費用、当時の装いについての千代の回想、「学校沿革誌」の記載は、刑部の評伝を通じて参照している。