日本の主婦として生きようとした

リタは、漬物を漬け、塩辛をつくり、魚の煮付けを覚え、日本髪を結って、日本人以上に日本人らしく生きようとした人だった。洗濯物を近くの洗濯屋に託し、近所の人々と交わって暮らす、ごく普通の主婦の顔も持っていた。本州での静養中に息子(甥のたけしを養子にした)夫婦や孫と過ごせた年末年始を「楽しい時間」と喜ぶ一方、家族が帰ったあとの食卓をひとりで囲む寂しさを、英国の妹ルーシーへの手紙に書き送ってもいる(『リタとウイスキー』)。異国に根を下ろした誇りと、その裏のかすかな孤独。リタは竹鶴にとって最愛の妻であり、ウイスキーづくりという夢の最大の理解者でもあった。

翌1962(昭和37)年6月、竹鶴はリタが好きだった余市蒸溜所を見下ろす小高い丘に、妻の墓を建てた。墓石の表には「竹鶴政孝 竹鶴リタ」と夫婦の名を並べて刻んだ。存命のうちに刻む名には朱を入れるのが習わしだが、竹鶴は自分の名に朱を入れさせなかった。いつでも妻の隣へ行ける、という思いからだった。墓石の裏には英語で、リタが1896年に生まれ、1961年に世を去ったことが記されている。