日本の主婦として生きようとした
リタは、漬物を漬け、塩辛をつくり、魚の煮付けを覚え、日本髪を結って、日本人以上に日本人らしく生きようとした人だった。洗濯物を近くの洗濯屋に託し、近所の人々と交わって暮らす、ごく普通の主婦の顔も持っていた。本州での静養中に息子(甥の威を養子にした)夫婦や孫と過ごせた年末年始を「楽しい時間」と喜ぶ一方、家族が帰ったあとの食卓をひとりで囲む寂しさを、英国の妹ルーシーへの手紙に書き送ってもいる(『リタとウイスキー』)。異国に根を下ろした誇りと、その裏のかすかな孤独。リタは竹鶴にとって最愛の妻であり、ウイスキーづくりという夢の最大の理解者でもあった。
翌1962(昭和37)年6月、竹鶴はリタが好きだった余市蒸溜所を見下ろす小高い丘に、妻の墓を建てた。墓石の表には「竹鶴政孝 竹鶴リタ」と夫婦の名を並べて刻んだ。存命のうちに刻む名には朱を入れるのが習わしだが、竹鶴は自分の名に朱を入れさせなかった。いつでも妻の隣へ行ける、という思いからだった。墓石の裏には英語で、リタが1896年に生まれ、1961年に世を去ったことが記されている。
ニッカウヰスキー北海道 余市蒸溜所 (@nikka_yoichi) January 1, 2026
リタへ捧げる渾身のウイスキーだった
そして同じ1962年10月、竹鶴は失意から立ち上がる。彼を再びウイスキーづくりへと向かわせたのは、リタとともに築いてきた本物のウイスキーへの情熱だった。竹鶴は養子の威とふたりで余市蒸溜所の貯蔵庫と研究室にこもりきりになり、1934年の創業以来貯えてきた原酒の中から、考えうるかぎり最高の組み合わせを探し当てた。その原酒には、リタと歩んだ歳月が染み込んでいた。こうして生まれた渾身の一本が「スーパーニッカ」である。ニッカウヰスキーは公式に、これを「リタへ捧げる鎮魂のウイスキー」と位置づけている。
竹鶴のこだわりは中身だけにとどまらなかった。香料や着色料で見た目を整えた安価なまがいものが幅を利かせた時代に、彼は妥協なく本物を目指した。ボトルに選んだのは、各務クリスタル製作所(現・カガミクリスタル)の手吹きのクリスタルガラス。デザインを手がけたのは、戦後を代表するガラス工芸家・佐藤潤四郎である。すらりと伸びた首と、柔らかくふくらんだ涙のかたちのボディ。竹鶴は工房でそのボトルを見るなり「これがいい」と抱きしめて離さなかったと伝わる。女性的なフォルムに亡き妻の面影を重ねたのではないか、とも語り継がれている。